夏目漱石『明暗』―お延と結婚

六十一~八十章はお延が焦点人物となり、しばしば直接話法的に、再現された言説としてお延の心内が語られる。また、お延から見た津田との出会いが回想によって明らかになる場面が含まれる。

 漱石による女性表象は、『明暗』になって大きな特色となる。人間関係に女性のコミュニティが描かれるのだ。そして、女性同士の関係の機微が、家を媒介として男性社会の津田を脅かすこととなる。柄谷行人も解説で、『明暗』の多声的な語りについて言及している。

 

 ”他者”とは、私の外に在り、私の思い通りにならず見通すことのできない者であり、しかも私が求めずにいられない者のことである。『明暗』以前の作品では、漱石はそれを女性として見出している。『三四郎』から『道草』にいたるまで、決まって女性は、主人公を翻弄する、到達しがたい不可解な“他者”としてある。[1]

 

 注目すべきことは、それまでのコケティッシュであるか寡黙であった女性像、あるいは、一方的に謎として彼岸におかれていた女性像に反して、まさに彼女らこそ主人公として活動するということである(最後に登場する清子にしても、はっきりした意見をもっている)。[2]

 

 複数の声を採用することによって生まれる決定不可能性は、“津田とお延夫婦のエゴイズム”という一義的な要素からの余情や欠落を包含する。六十一章から八十章までは、お延の声を掬い取ることで、恋愛結婚への理想視と幻滅が見え隠れする。

 

[1] 柄谷行人 新潮文庫版『明暗』解説:678

[2] 右に同じ、同ページ

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夏目漱石「門」を迂回して語ろう

 こんばんは。またサボってしまいました。友人がpunctualにnoteを更新しているのを見て焦るこの頃です。

 まあたまにはラフに文学について書こうと思い、表題のようになりました。夏目漱石「門」を読み返したんですが、面白いですね~。何回呼んでも深読みができるというか、気づかない細部に満ちてるというか、うまいですね。

 それで、「門」の良さは過去の事件について語らないけれど、現在の宗助と御米に影を落としていて、その語られないこと、抽象であることによってかえって想像の幅を広げているところだと思うんですね。ですので、そのようなことを念頭に置きつつ、自分も過去の事件について語らないように論じてみようと思います。ネタバレにならないように興味を持たせる、といったら皆さん読んでくれますか、どうなんですか? 成功していればいいんですけど。

 

(以下、引用は岩波文庫版から)

 御米が自己を見出すのは家の中においてであり、宗助が自己を見出すのは家の外においてである。御米は使っていた六畳を追い出されるときに、「こうなると少し遣り場に困るのね」(六章、70)と言いながら、毎日自分の顔を覗き込む鏡台を自分の状況と重ね合わせている。六畳の間は御米にとって現在の自分を見つめる場だけでなく、過去の自分を思い返す場でもあった―「『御米、御前子供が出来たんじゃないか』と笑いながらいった。御米は返事もせずに向いてしきりに夫の背広の埃を払った。刷毛の音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行って見ると、薄暗い部屋の中で、御米はたった一人寒そうに、鏡台の前に坐っていた」(六章、71-72)。一方宗助は、働きに出る六日間で消耗した自己を、日曜日に街に出ることで回復していく。きらびやかな商品を眺めることによって自分を忘却し、満足を得る(二章、16-19)。御米とは対照的に、鏡に自分を映してみても同一性を見出し得ない―「漸く自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出した時、ふとこの影は本来何者だろうと眺めた」(十三章、133)。加えて、街中で過去を想起させるものに出くわすと不愉快が起こる―「買って行って遣ろうかという気がちょっと起るや否や、そりゃ五、六年前の事だという考が後から出て来て、折角心持の好い思い付をすぐ揉み消してしまった。宗助は苦笑しながら窓硝子を離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間は何だか詰らないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった」(二章、18)。宗助は過去の事件の想起に伴う痛みをこらえられない人物なのである。

 自分と過去を見つめることができない宗助と、過去の罪を意識せざるを得なかった身の御米の対峙は、夜に鏡のように向き合って、宗助が他者としても御米を見出し得ないシーンとして描かれる。「今まで仰向いて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向き直った。そうして薄暗い影になった御米の顔を凝と眺めた。御米も暗い中から凝と宗助を見ていた。そうして、『疾から貴方に打ち明けて謝罪まろう謝罪まろうと思っていたんですが、つい言い悪かったもんだから、それなりにして置いたのです』と途切れ途切れにいった。宗助には何の意味かまるで解らなかった」(十三章、140)ように、御米が常に宗助に申し訳なく思っていた過去は、宗助自身にとっては忘却の渦にあり、何を指しているのか理解が出来なくなっている。安井の影が崖下の家に伸びるようになってきて、宗助は夜の町を放浪して宗教という答えを出すものの、家庭に持ち込み、御米に打ち明けることはできない。その晩、宗助が眠れない中で、「さも心地好さそうに眠ってい」(十七章、196)る御米の顔を、時々眼を開けて見るのみである。禅寺へ入っても、彼は「如何に大字な書物をも披見せしめぬ程度の」「薄暗い灯」の中で、「宜道のいわゆる老師なるものを認め」(十九章、215)るものの、「父母未生以前本来の面目」(十八章、204)を見解することはできない。

泉鏡花「艶書」と近代

資料作成にあたり、一部旧字体、仮名遣いを改め、ルビを省略した。

また、「艶書」からの引用は岩波書店『鏡花全集 巻十五』から行い、ページ数を括弧内に示す。

 

 

艶書

艶書

 

 

泉鏡花「艶書」:大正二年四月、『現代』第四巻第四号に発表。大正二年十月、春陽堂刊の作品集『乗合船』に収録。大正七年七月、春陽堂刊の作品集『愛艸集』に収録。春陽堂版の『鏡花全集巻九』に収録。

(以上岩波書店『鏡花全集 別巻』p.826より引用)

 

 互いに秘密を持った男女が、狂人という特殊な場によって出会い、その秘密が暴かれる。その狂人の、坂の上の日の当たる場所を選び、ぽつねんと「土蜘蛛」のように控えている様と、薄暗い病院の裏門という明るさの中に潜む暗部といった構造が印象的であると感じた。そのほかにおいても、「艶書」は対比が作り込まれた短編である――その一部は秘密の手がかりとなっている。その対比構造を解き明かすことによって、「艶書」の秘密について論じる。

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声の採用―太宰治「恥」についての検討―

 

 

◆先行研究

 創作集『女性』の全作品を取り上げた渡部は、「恥」については、「発表当時の反応はなかったようだ。現代でも特にとりあげられる作品ではない」と記述している。個別の作品論は佐々木啓一の『太宰治論』内、「『恥』――自閉のなかの告白の演戯――」が初めのようだ。『太宰治作品研究事典』で、鈴木が研究史を以下のように簡単にまとめている。

 

 読み軸を小説家戸田の側に据える傾向が、しばらく目立った。奥野健男太宰治』(昭和四十三年三月、文芸春秋社)は〈作家の表現と実生活の差をテーマにしたもの〉とした。(中略)いずれも小説家戸田の側に立って、語り手〈私〉を否定的にとらえる読みであった。

 これに対し、鈴木雄史「太宰治『恥』の正しい誤読者」(平成五年九月「論樹」)は、〈私〉の側に〈一片の正当性〉を見ようとした。

 

 先行研究を見ると、「「戸田」と「私」のどちらの視点を据えるかによって作品への評価も違ってくる」(何2012)。

 異なった主張をする二者のどちらに肩入れするか、すなわちどちらの視点を採用するかによって作品全体の見方が異なるのは興味深い。そのような二重性を含む仕掛けが作り出されている。

 本論では、この仕掛けにひとまず加担してみることにする。戸田と和子(=私)の両方の視点を一旦採用してみることで、「作者」というテーマ性に注目する。

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記憶と感覚、その他者性をめぐって ―カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』における記憶と認識―

 

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

The Buried Giant

The Buried Giant

  • 作者:Ishiguro, Kazuo
  • 発売日: 2016/01/07
  • メディア: マスマーケット
 

 

本稿において、以下、断りのない場合、()内は土屋訳『忘れられた巨人』の、[]内はFaber & Faber版The Buried Giantのページ数を示す。

 

 『忘れられた巨人』(The Buried Giant)は、カズオ・イシグロによる長編小説である。前作『わたしを離さないで』(Never Let Me Go)より十年後の二〇一五年三月にアメリカ・イギリスで出版され、四月に邦訳も発売された。

 時代は定かではないが、現在よりも昔の時間軸のイングランド地方を舞台にしている。村落に住むアクセルとベアトリスの老夫婦が物語の主人公である。二人は共同体のなかでひっそりと暮らしていたが、村全体が健忘の霧と呼ばれる、特定の記憶を忘れていってしまう呪いにかかっていた。周りの村人は何不自由なく暮らしていたが、二人は村を出てしまった息子にもう一度会うために、健忘と決別し、村の外に探しに行く旅に出る。

 この作品の特徴は二点ある。一つは、アーサー王伝説との関係である。二人が旅をするのはアーサー王が君臨したよりも百年後のイングランドが舞台となっており、文学的記憶であるアーサー王が、実在した人物として物語を握るカギとなっている。また、知力にあふれた円卓の騎士の一人、ガウェイン卿も登場する。もう一つは、語り手の特異性である。カズオ・イシグロの小説の語り手は、一人称視点によるものがほとんどであった。しかし、今回の『忘れられた巨人』では、主人公のアクセルとベアトリスに焦点は当てられているものの、語り手はあくまで俯瞰的な三人称視点である。また、一部の章では他の人物に焦点が当てられたり、語り手が移ったりする。カズオ・イシグロのこれまでの小説の主人公は、信頼できない語り手の問題が論じられることが多かったが、思い出したくても忘れてしまう、自己の見たものをとどめておけないもどかしさを内部に抱えながら旅を進める、過去を語ることができない人物の物語(それはエクリチュールでもある)という、記憶の不確かさがテーマとなっている。

 

 

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『斜陽』あれこれ

こんにちは。前回更新してから半年以上経っていました。Twitterの文字制限がうざすぎるのでこちらにまとめます。一日一太宰の系列です。とは言いつつ、あまりまとまっていないので断章形式(行き当たりばったりのことです)で書きます。ページ数を引用するとしたら筑摩書房の全集(山内祥史さんがまとめてる赤いやつ)から引きます。

 

◆「四人四様の滅びの宴」

奥野健男の「「斜陽」論」から、良く引用される一節について。最近の論文のほとんどっで先行研究として出されていて、そのほとんどがこの一節を踏み台にするまたは裏返す形で使っています。それは正しくて、奥野はこれでよかったけれど、次の我々の研究はその先を行かなければいかないというのはもっともです。

自分が引っかかっているのは、どうしてかず子、お母さま、直治、上原の四人が滅びなければならなかったのかということです。読んでいれば、みんなそれぞれ時代にそぐわない部分があって、そのせいで滅びることになった、みたいな結論は出せるのですが、何故時代は彼らを救ってくれなかったのかと考えると途端に答えが出なくなります。で、ちょうど先学期の安藤先生の講義で「兄弟の上下関係の強調と天皇制」というようなテーマを扱っていました。簡単に言うと、例えば「津軽」で出来損ないの弟分としての「津軽」と自分を同一視させる(加えて、作中人物の実際の兄は無言の権力を持っています)ことで、天皇制(頂上たる天皇は空洞です)の称揚をしている、という内容だったのですが、戦後という時代の転換を過ぎた後の「斜陽」を考えてみると、姉弟、そして母という家族構成からわかるように、兄分、というものは存在しないわけです。父親、というのも、かず子が小さい頃に亡くなっているようで、しかも蛇の挿話からわかるように、なんだか禍々しく、不吉な亡くなり方をしています。ですからかず子と直治は、お母さまをいわば「女の父」と尊敬することで生きてきたのですが、戦後しばらく経っての貴族令廃止でその幻影的な崇拝は崩壊することとなります。クライシスに陥った姉弟は、時期をずらして、どちらも上原に頼ることとなるのですが、上原は父権から逃避するように生きている人間でした。「一万円。それだけあれば、電球がいくつ買へるだらう。私だって、それだけあれば、一年らくに暮せるのだ」(138)と、かず子も上原が父権という重荷に耐えられない人物であることを発見します。かず子の「革命」は変容します。「恋」・「M.C.(マイ・チェホフ)」という幻影を離れ、「道徳」との闘争に向かいます。「第一回戦」(165)を戦った彼女は、その犠牲者のために、自分の子を上原の妻に、直治の子だと称して抱かせることを頼みます。この、「子供の父親を混乱させる」状態は、父権への敵意であり、華々しい挑戦状です(とはいえ、この奇異な行為にはそれだけに収まりきらない側面もあるので考えなければなりませんが)。服部このみ「太宰治「斜陽」についての一考察」がなるほどと思いました。(オンライン化本当に反対で即刻やめてほしいやめるべきだ东京大学と思い続けているのですが、火曜4限の安藤先生の講義に出られるようになったのはうれしいです、まあオンライン化してなくてもなんとかできたのですが!)また、同じ戦後の父権の喪失を考える点で、「冬の花火」も大いに参考にできそうです。

 

◆中編小説?

形式について。「斜陽」はいわゆる中編小説の長さですが、私は短編の集合体に過ぎないと思っています(過ぎない、と言いましたが、むしろ好意を持って言っています)。全般的にかず子の語りではあるのですが、合間合間に①夕顔日記、②かず子の手紙、③直治の遺書、④かず子の手紙(再)が挿入され、中断されることで、多声的な語りが生まれています。また、かず子の語りと目される部分も、必ずしも語り手かず子がいま―ここの現前において語っているわけではなく、日記の引用という性格からもわかる通り、回想によって語りのいまがずれ、性格としてはだいぶん不安定な、というか、あっちこっちに手を出してしまう語り手であります(榊原理智「語る行為の小説」を参考にしてください)。物語の中に複数の声を入れることによって、簡単に言えばかず子一人の感傷に終わらせていないところがうまいなあと思いますね。いわゆる「自意識過剰の一人称語り」とは逆ベクトルに向かおうとはしている、のですが、「人間失格」でまたバイオグラフィカルな語りに移行してしまうのが不思議です。まあそんなに二つにきっぱり分けることはないので、他の呼称をそろそろ編み出したいところです…。

 

◆「チェホフ」「トロイカ」「かもめ」「ニーナ」「三人姉妹」「桜の園」「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」

引用の問題、特にチェーホフの「かもめ」「桜の園」「三人姉妹」にあたってみたんですけど、だいぶん恣意的というか、気ままに引用しているなということが分かりました…(こんなんでいいのか?)。「日本版「桜の園」」を書くと言っていますが、日本版と付けている時点でそれはノットイコールであって、隠喩であって、というか。他の物語群と交錯しているというよりかは、サブリミナル的に効果をもたらしている、位にとどめておいた方がいいかもしれませんね。聖書からの引用は、めちゃ都合よく使ってるなwって感じでした。この都合良い感じの戦略性はなんなんだろう。

 

 

切り札として死が残ってる

 Twitterをやめた。せいせいしたぜ万歳と思うと同時に、今までタイムラインを眺めるのに費やされていた時間が宙に浮いてしまったので、昨日からずっと寝ている。無為の生活、生活。

 きっかけは本当に些細なことであって、ありがちに、ただある種の呟きを目にしてとても苛立ったというだけなんだけど。私はちゃんと、Twitterには人や単語を指定してミュートができることを知っている。けれど最早、そういった世界が存在していること自体に嫌気がさしてしまったのだ。あらゆるものへ、許容量が極端に少なくなっている、こんな状態、Twitterは毒にしかならない。だからやめてやった。ずっと寝てる。現実すらも嫌になった。はは

 ここ二週間くらい、ずっとお金がない、銀行残高は296円で、そのことでよくウケをとっている。その実、私は平気なのである。今日は給料日だからお金が5万円弱入ってくるんだと思うけど、貯金ももうやめてやろうと思ってる。バイトを掛け持ちしているから、月に二度給料日があって、入ってきた給料のうちの1万円、つまり月に2万円を目標にしていたけれど、どうせうまくいかないからやめる。貯金するはずだったお金で、今までやったことのないことを探そうと思う。たくさんあるような気がしている。

 そうそう、なぜジリ貧でもそれほど苦ではないかというと、明日のことなんてどうでもいいと思いながら暮らしているからだ。なんと素敵ライフハック。明日がどうあっても構わないという心持が最も美しく映るように思える。知らんけど。

 本当に心につかえているのは恋愛で、どうしようもない思いを抱えている。自分がクズなのは、やはり7年前から決定されたことだから、何を言われても大丈夫な気がしているけど、昨日はそんなことない気がした。すべての人に好かれたいという、不可能性。不誠実にこの世を漂うことの、爽快感。「幸か不幸か」、「私の道」はこういう方向にしか伸びていないようだ。わたしには、好きな人が二人いて、別にそれでもいいと思っていたけれど、二人を同時に愛するという行為の実践は不可能だったから、無自覚に人を傷つけている。

 ヨハネでは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」というおことばが有名であるが、わたしの苦しみ、全く知らない人、知ろうとしない人、知るような人生を送らなかった人の手にかかって死ぬもんか。この罪の感覚を見知っていて、聴いていて、だからこそ赦すことのできない人たちに殴り殺されたい。同族嫌悪のなかでだけ、死ぬことは是だ。それ以外は受け付けない、うまくいかなかったら、わたしは自分で死んでやるよ。