卒論(仮)―「人間失格」との問題

 こんにちは~。すっかりご無沙汰です…。一応、この間からの続きで記事を書きます。

卒論(仮)① - 谷

卒論(仮)ー「美男子と煙草」② - 谷

なんか前回「冬の花火」で書きますと宣言した気がするのですが、話の繋がり上「人間失格」について書きます。というのも、人間失格」と前回までで話した「美男子と煙草」は相似点をいくつか挙げられるのではないかと思っているからです。

太宰治 人間失格

 

 

1.「美男子と煙草」に絡める前に、折角なので「人間失格」単体の思ったこと(?)をいくつか書きます。

1-1.どうやって「人間失格」させるか

 2019年度Aセメスターの安藤先生の特講は「斜陽」と「人間失格」についてのお話で、そこで先生がお話しされた問題点の一部について、考えてみたことがこの部分です(とお断りします)。

 安藤先生は、「人間失格」の話のストーリー上の展開として、第一の手記から第二の手記へと進む、つまり主人公葉蔵の成長に応じて、破綻が生じざるを得ないと指摘されました。つまり、第一の手記冒頭で語られた「自分には、人間の生活というものが、見当つかない」という葉蔵自身の独白は、第一の手記では葉蔵自身が子供であることから、大人の世界が分からないという意味に解釈・共感できて、挿入される個々のエピソードと照応しても違和感のない言葉である一方で、葉蔵の成長によって、大人の世界、いうなれば世間が分かって来ざるを得ないのではないか、ということです(「人間失格」が半生を描いているのに巷では思春期小説とみられ、「太宰治を”卒業”した」という言説が通ってしまうことの一端がここにあるのではないでしょうかね)。これは的を射ていると思います。例えば、冒頭のこういう独白です。

自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

 破綻と言い切ってしまうとつまらないので、この問題点を始点として何らか書いていきます。

 見方を変えて言えば、物語に破綻するプロットがありながら、実際に「人間失格」ができている裏には何らかのトリックがあるわけです。そのトリックとして、問題のすり替えがあるのではないかと言いたいと思います。そしてそれは人間に恐怖する⇒女に恐怖するという対象のすり替えではないかと思います。

 実際に独白の中でも、葉蔵は世渡りの術、人間とはどのようにして生きているのかということについて、分かりかける部分があります。

そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにケチになりました。また、シゲ子の言葉を借りて言えば、あまりシゲ子を可愛がらなくなりました。

 しかし世間というものを割り切る事が出来た葉蔵にも、ご存じの通り妻ヨシ子との間に大いなる惨禍が降り注ぐわけです。ですが、この不幸が起こった原因は葉蔵が人間の生活についてわからなかったからでは決してありません。誰にも過失を求める事の出来ない、事故のようなものでした。しかしそれゆえにこそ、葉蔵は罪の所在をヨシ子の「無垢の信頼心」に帰着し、その罪の源泉を赦すことのできない自分に苦悩し、「人間失格」へと至ります。

けれども、自分たちの場合、夫に何の権利も無く、考えると何もかも自分がわるいような気がして来て、怒るどころか、おこごと一つも言えず、また、その妻は、その所有しているまれな美質に依って犯されたのです。しかも、その美質は、夫のかねてあこがれの、無垢の信頼心というたまらなく可憐かれんなものなのでした。

 第一の手記と、第二の手記以降での展開には、主軸が違っているところがあります。第一の手記は実家での成長を振り返っている、つまり葉蔵自身の成長とその挫折が主軸になっているのに対し、第二の手記以降では女性遍歴らしさを増しています。「人間失格」と言いながら、その実、物語の大部分で問題となっているのは、女性との個人同士での関係の築き方に苦悩する葉蔵の姿であると言えます。

 

1-2.生家と父の謎

 1-1.で問題のすり替えについて話しましたが、一見うまく「人間失格」に落とし込めているようで、よくわからない部分や謎が出て来ています。その最も大きなものが、生家と父の問題だと思われます。

 葉蔵にとって生家は暗い影を落としている場所で、手記の最初から最後まで脅威として通奏低音のように存在します。第一の手記のシシマイのエピソードは印象的ですし、また、下男たちに虐待されていた体験も随所で出てきます。

 一方で、生家との縁は第二の手記時点の物語時間で切れることになります。そこで、葉蔵は他郷へ出ることとなり、生家および父の存在は後景に退くこととなります。それ以降、生家との関係は金銭に姿を変えて葉蔵を脅かします。また、父の代替的人物としてヒラメが登場し、葉蔵の保護者的役割を受け継ぎます。

 …が、第一の手記に登場するような絶対的脅威としての生家はもはや存在しません。金銭のひっ迫は葉蔵が女性と関わる道具立てとして利用されているきらいがあり、また、なによりヒラメが雑魚すぎますw つまり、生家の代わりとしての金銭は、女性との関係をうまく持てない状況に葉蔵を追い込むための舞台装置としか機能しなくなってしまいます。

 だからこそ、「僕は、女のいないところに行くんだ」という葉蔵の無意識的な発言は身に染みるものに感じられ、一方で、手記最終部あたりの、

父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ腑抜ふぬけたようになりました。父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐しくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました。まるで、張合いが抜けました。苦悩する能力をさえ失いました。

という独白、およびあとがきのバアのマダムの「あのひとのお父さんが悪いのですよ」というセリフは、やや唐突な印象を受けるのです(フロイトによると無意識的な発言の方がよく心理を表しているらしいですからねw)。

 

1-3.葉蔵の被害体験

 ここから次の「美男子と煙草」との類似点にもかかわってくる話題になってきます。「美男子と煙草」と同じく、「人間失格」でも、被害体験を語る「私」という語り口が見出せないだろうかという話です。

 葉蔵の語り口もまた被害者的で、はじめから失敗したことのみを語るように、自分の弱みを進んで曝け出す語り口を取ります。また、弱者としての受動的自己、傍観することしかできない自己を際立たせるように語ります。

惜しいという気持ではありませんでした。自分には、もともと所有慾というものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持はあっても、その所有権を敢然と主張し、人と争うほどの気力が無いのでした。のちに、自分は、自分の内縁の妻が犯されるのを、黙って見ていた事さえあったほどなのです

 

ゆくてをふさぐ邪魔な石を
蟾蜍ひきがえるは廻って通る。

 

いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。

 というのも、葉蔵には加害者というものがあまりいません。あまりいませんというのは、実家を除けば脅かすものは堀木とヒラメがいわゆる悪役としての立場を担うのですが、それにしても雑魚で、大したことありませんw

 結局、葉蔵を追い詰めていくのはアルコールやカルモチンへの依存症で、弱い自己に耐えることができない自己意識の分裂だったと言えそうです。「人間失格」が多くの人に受け入れられているのはこの弱い自己と向き合えないという苦悩の普遍性にあるのかもしれませんね。

 

 また眠くなってきたので序盤に言ったような「美男子と煙草」との類似点まで行っていませんがここでやめます!w