夏目漱石「門」を迂回して語ろう

 こんばんは。またサボってしまいました。友人がpunctualにnoteを更新しているのを見て焦るこの頃です。

 まあたまにはラフに文学について書こうと思い、表題のようになりました。夏目漱石「門」を読み返したんですが、面白いですね~。何回呼んでも深読みができるというか、気づかない細部に満ちてるというか、うまいですね。

 それで、「門」の良さは過去の事件について語らないけれど、現在の宗助と御米に影を落としていて、その語られないこと、抽象であることによってかえって想像の幅を広げているところだと思うんですね。ですので、そのようなことを念頭に置きつつ、自分も過去の事件について語らないように論じてみようと思います。ネタバレにならないように興味を持たせる、といったら皆さん読んでくれますか、どうなんですか? 成功していればいいんですけど。

 

(以下、引用は岩波文庫版から)

 御米が自己を見出すのは家の中においてであり、宗助が自己を見出すのは家の外においてである。御米は使っていた六畳を追い出されるときに、「こうなると少し遣り場に困るのね」(六章、70)と言いながら、毎日自分の顔を覗き込む鏡台を自分の状況と重ね合わせている。六畳の間は御米にとって現在の自分を見つめる場だけでなく、過去の自分を思い返す場でもあった―「『御米、御前子供が出来たんじゃないか』と笑いながらいった。御米は返事もせずに向いてしきりに夫の背広の埃を払った。刷毛の音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行って見ると、薄暗い部屋の中で、御米はたった一人寒そうに、鏡台の前に坐っていた」(六章、71-72)。一方宗助は、働きに出る六日間で消耗した自己を、日曜日に街に出ることで回復していく。きらびやかな商品を眺めることによって自分を忘却し、満足を得る(二章、16-19)。御米とは対照的に、鏡に自分を映してみても同一性を見出し得ない―「漸く自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出した時、ふとこの影は本来何者だろうと眺めた」(十三章、133)。加えて、街中で過去を想起させるものに出くわすと不愉快が起こる―「買って行って遣ろうかという気がちょっと起るや否や、そりゃ五、六年前の事だという考が後から出て来て、折角心持の好い思い付をすぐ揉み消してしまった。宗助は苦笑しながら窓硝子を離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間は何だか詰らないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった」(二章、18)。宗助は過去の事件の想起に伴う痛みをこらえられない人物なのである。

 自分と過去を見つめることができない宗助と、過去の罪を意識せざるを得なかった身の御米の対峙は、夜に鏡のように向き合って、宗助が他者としても御米を見出し得ないシーンとして描かれる。「今まで仰向いて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向き直った。そうして薄暗い影になった御米の顔を凝と眺めた。御米も暗い中から凝と宗助を見ていた。そうして、『疾から貴方に打ち明けて謝罪まろう謝罪まろうと思っていたんですが、つい言い悪かったもんだから、それなりにして置いたのです』と途切れ途切れにいった。宗助には何の意味かまるで解らなかった」(十三章、140)ように、御米が常に宗助に申し訳なく思っていた過去は、宗助自身にとっては忘却の渦にあり、何を指しているのか理解が出来なくなっている。安井の影が崖下の家に伸びるようになってきて、宗助は夜の町を放浪して宗教という答えを出すものの、家庭に持ち込み、御米に打ち明けることはできない。その晩、宗助が眠れない中で、「さも心地好さそうに眠ってい」(十七章、196)る御米の顔を、時々眼を開けて見るのみである。禅寺へ入っても、彼は「如何に大字な書物をも披見せしめぬ程度の」「薄暗い灯」の中で、「宜道のいわゆる老師なるものを認め」(十九章、215)るものの、「父母未生以前本来の面目」(十八章、204)を見解することはできない。