『斜陽』あれこれ

こんにちは。前回更新してから半年以上経っていました。Twitterの文字制限がうざすぎるのでこちらにまとめます。一日一太宰の系列です。とは言いつつ、あまりまとまっていないので断章形式(行き当たりばったりのことです)で書きます。ページ数を引用するとしたら筑摩書房の全集(山内祥史さんがまとめてる赤いやつ)から引きます。

 

◆「四人四様の滅びの宴」

奥野健男の「「斜陽」論」から、良く引用される一節について。最近の論文のほとんどっで先行研究として出されていて、そのほとんどがこの一節を踏み台にするまたは裏返す形で使っています。それは正しくて、奥野はこれでよかったけれど、次の我々の研究はその先を行かなければいかないというのはもっともです。

自分が引っかかっているのは、どうしてかず子、お母さま、直治、上原の四人が滅びなければならなかったのかということです。読んでいれば、みんなそれぞれ時代にそぐわない部分があって、そのせいで滅びることになった、みたいな結論は出せるのですが、何故時代は彼らを救ってくれなかったのかと考えると途端に答えが出なくなります。で、ちょうど先学期の安藤先生の講義で「兄弟の上下関係の強調と天皇制」というようなテーマを扱っていました。簡単に言うと、例えば「津軽」で出来損ないの弟分としての「津軽」と自分を同一視させる(加えて、作中人物の実際の兄は無言の権力を持っています)ことで、天皇制(頂上たる天皇は空洞です)の称揚をしている、という内容だったのですが、戦後という時代の転換を過ぎた後の「斜陽」を考えてみると、姉弟、そして母という家族構成からわかるように、兄分、というものは存在しないわけです。父親、というのも、かず子が小さい頃に亡くなっているようで、しかも蛇の挿話からわかるように、なんだか禍々しく、不吉な亡くなり方をしています。ですからかず子と直治は、お母さまをいわば「女の父」と尊敬することで生きてきたのですが、戦後しばらく経っての貴族令廃止でその幻影的な崇拝は崩壊することとなります。クライシスに陥った姉弟は、時期をずらして、どちらも上原に頼ることとなるのですが、上原は父権から逃避するように生きている人間でした。「一万円。それだけあれば、電球がいくつ買へるだらう。私だって、それだけあれば、一年らくに暮せるのだ」(138)と、かず子も上原が父権という重荷に耐えられない人物であることを発見します。かず子の「革命」は変容します。「恋」・「M.C.(マイ・チェホフ)」という幻影を離れ、「道徳」との闘争に向かいます。「第一回戦」(165)を戦った彼女は、その犠牲者のために、自分の子を上原の妻に、直治の子だと称して抱かせることを頼みます。この、「子供の父親を混乱させる」状態は、父権への敵意であり、華々しい挑戦状です(とはいえ、この奇異な行為にはそれだけに収まりきらない側面もあるので考えなければなりませんが)。服部このみ「太宰治「斜陽」についての一考察」がなるほどと思いました。(オンライン化本当に反対で即刻やめてほしいやめるべきだ东京大学と思い続けているのですが、火曜4限の安藤先生の講義に出られるようになったのはうれしいです、まあオンライン化してなくてもなんとかできたのですが!)また、同じ戦後の父権の喪失を考える点で、「冬の花火」も大いに参考にできそうです。

 

◆中編小説?

形式について。「斜陽」はいわゆる中編小説の長さですが、私は短編の集合体に過ぎないと思っています(過ぎない、と言いましたが、むしろ好意を持って言っています)。全般的にかず子の語りではあるのですが、合間合間に①夕顔日記、②かず子の手紙、③直治の遺書、④かず子の手紙(再)が挿入され、中断されることで、多声的な語りが生まれています。また、かず子の語りと目される部分も、必ずしも語り手かず子がいま―ここの現前において語っているわけではなく、日記の引用という性格からもわかる通り、回想によって語りのいまがずれ、性格としてはだいぶん不安定な、というか、あっちこっちに手を出してしまう語り手であります(榊原理智「語る行為の小説」を参考にしてください)。物語の中に複数の声を入れることによって、簡単に言えばかず子一人の感傷に終わらせていないところがうまいなあと思いますね。いわゆる「自意識過剰の一人称語り」とは逆ベクトルに向かおうとはしている、のですが、「人間失格」でまたバイオグラフィカルな語りに移行してしまうのが不思議です。まあそんなに二つにきっぱり分けることはないので、他の呼称をそろそろ編み出したいところです…。

 

◆「チェホフ」「トロイカ」「かもめ」「ニーナ」「三人姉妹」「桜の園」「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」

引用の問題、特にチェーホフの「かもめ」「桜の園」「三人姉妹」にあたってみたんですけど、だいぶん恣意的というか、気ままに引用しているなということが分かりました…(こんなんでいいのか?)。「日本版「桜の園」」を書くと言っていますが、日本版と付けている時点でそれはノットイコールであって、隠喩であって、というか。他の物語群と交錯しているというよりかは、サブリミナル的に効果をもたらしている、位にとどめておいた方がいいかもしれませんね。聖書からの引用は、めちゃ都合よく使ってるなwって感じでした。この都合良い感じの戦略性はなんなんだろう。