記憶と感覚、その他者性をめぐって ―カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』における記憶と認識―

 

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

The Buried Giant

The Buried Giant

  • 作者:Ishiguro, Kazuo
  • 発売日: 2016/01/07
  • メディア: マスマーケット
 

 

本稿において、以下、断りのない場合、()内は土屋訳『忘れられた巨人』の、[]内はFaber & Faber版The Buried Giantのページ数を示す。

 

 『忘れられた巨人』(The Buried Giant)は、カズオ・イシグロによる長編小説である。前作『わたしを離さないで』(Never Let Me Go)より十年後の二〇一五年三月にアメリカ・イギリスで出版され、四月に邦訳も発売された。

 時代は定かではないが、現在よりも昔の時間軸のイングランド地方を舞台にしている。村落に住むアクセルとベアトリスの老夫婦が物語の主人公である。二人は共同体のなかでひっそりと暮らしていたが、村全体が健忘の霧と呼ばれる、特定の記憶を忘れていってしまう呪いにかかっていた。周りの村人は何不自由なく暮らしていたが、二人は村を出てしまった息子にもう一度会うために、健忘と決別し、村の外に探しに行く旅に出る。

 この作品の特徴は二点ある。一つは、アーサー王伝説との関係である。二人が旅をするのはアーサー王が君臨したよりも百年後のイングランドが舞台となっており、文学的記憶であるアーサー王が、実在した人物として物語を握るカギとなっている。また、知力にあふれた円卓の騎士の一人、ガウェイン卿も登場する。もう一つは、語り手の特異性である。カズオ・イシグロの小説の語り手は、一人称視点によるものがほとんどであった。しかし、今回の『忘れられた巨人』では、主人公のアクセルとベアトリスに焦点は当てられているものの、語り手はあくまで俯瞰的な三人称視点である。また、一部の章では他の人物に焦点が当てられたり、語り手が移ったりする。カズオ・イシグロのこれまでの小説の主人公は、信頼できない語り手の問題が論じられることが多かったが、思い出したくても忘れてしまう、自己の見たものをとどめておけないもどかしさを内部に抱えながら旅を進める、過去を語ることができない人物の物語(それはエクリチュールでもある)という、記憶の不確かさがテーマとなっている。

 

 

 

◆序論―『忘れられた巨人』(The Buried Giant

 タイトルにある「巨人」は、息子の住む村を訪れるアクセルとベアトリスという二人の老婦人が旅を始めた最初の段階で、道を塞ぐ困難として出現するのだが、その後の長い旅路のさまざまな苦難と比べると、この巨人の脅威はごくごく小さいものだったことがわかる。なぜその後の話の展開の中では忘れ去られてしまう巨人が、タイトルとして掲げられるのか。それは、巨人の存在が、ある種の換喩として記憶、そのうちでも思い出したくない過去の思い出と同じように扱われており、物語に通底して主題となっているからだ。

 巨人についてベアトリスはこう表現している。

 

一箇所だけ注意が必要なところがあって … それはね、道が巨人の埋葬塚[where the giant is buried]を通るとき。知らない人にはただの丘に見えるでしょうけど、わたしが合図したら、そのときは道を外れてついてきてくださいね。 … いくら真昼でも、わざわざお墓を踏みつけて通るなんて、すべきことじゃないと思うから。(52)[33]

 

 ここで強調されているのは、記憶に関する認識の差異、そして忘れたいと思う記憶に対しての一般的な取り扱い方である。前者については、巨人の埋葬塚が、そうと知らない人にとっては普通の風景に見えるということから読み取れる。ある出来事に対しては、当事者とそれ以外、加害者と被害者などの線引きがされてしまい、その立場によって認識の差異が生まれてしまう。それに加えて、知らず知らずのうちに過去の傷としての記憶に触れてしまうことの危険性についても、あらかじめ示唆されている。後者については、ベアトリスの、墓に意識を近づけてはならないという念入りな注意や、墓を踏むべきではないという発言に見られる。ここにあるのは、過去の記憶に対する徹底的な“寝た子を起こすな”という態度である。忘れたい記憶について黙殺することによって、いつしか記憶からも永久に葬りさってしまうこと、その善悪を問うていくことになるのが、この長編の主題であるだろう。アクセルとベアトリスの間の忘れ去られていた過去、ブリトン人とサクソン人の戦いの歴史がそれである。そしてそれは、21世紀に於いての我々とも無関係ではない。過去の忘れたい記憶にどう折り合いをつけるのか、不都合な歴史は忘れた方が善なのか、『忘れられた巨人』はそういった種の問題についてある種の一つの応答をしている。本稿では、以上で見たような認識の差異について、過去への応答についての二点を論じていく。

 

◆本論

 

<1>見えること、認識

 アクセルとベアトリスの二人が旅を始めた段階では、ブリトン人とサクソン人の間には表面的には対立がなく、ブリトン人のアイバーがサクソン人の村の村長を務めることも可能である。しかし、対立がないのは霧のせいであり、人々の心には、まだ、人種間の対立意識、人々の違いを見逃さない“視線”がある。

 

村を出て丘沿いに二十分ほど歩くと、別の村がある。そこも外見はやはり兎の巣穴で、最初の村とたいして違わない。だが、住んでいる村人の目には違いが歴然とあって、その一つ一つが自慢の種だったり、恥ずべき汚点だったりした。(13)

 

違っているのは、見えているものをどう見るか、ということだけにとどまらず、見えていないことに対する攻撃もある。「異教徒どもは自分たちの迷信しか目に入らん [will not look beyond their superstitions]」(118)[81]という、アイバーのサクソン人への激しい非難は、見えているべきものが見えていないこと、“視野が狭い”ことに対する軽蔑の感情に起因している。このような、「自らの置かれた状況を判断し、その状況がどのような結末に至るのかをあらかじめ見通すこと」[1]が難しい人々を描くことは、イシグロが初期作品から行ってきたことだった。

 本作においては、そのような、見えていること、視覚による認識が記憶の保持と大きく関係している。クエリグを倒せば健忘の霧が晴れるという話を聞き、二人の旅の最終目的地が決まった場面で、アクセルはこのように思う。

 

あのとき、わたしはじつに強烈で、じつに奇妙な感情の真っただ中にあって、部屋の中で話されている言葉は一つ残らずはっきりと耳に届いていたものの、まるで夢の中にいるような気分だった。たとえれば冬の川に浮かぶ舟の中に立ち、濃い霧に包まれた前方を見つめながら[looking out into dense fog]、その霧がさっと分かれて陸地が鮮明な姿を現す[reveal vivid glimpses of the land ahead]瞬間をいまかいまかと待っているような……。 … そして、「何であれ、見せてくれ、見てみたい[let me see it]」と自分に強く言い聞かせていた。(237-238)[170](強調は引用者による)

 

ここでは、実際のクエリグの息は不可視であるにもかかわらず、心のうちでは実際の霧やもやのように前方を塞ぎ、視界を不自由にするものとして描かれている。それに伴って、記憶を取り戻そうとするアクセルの焦燥感が、「見せてくれ、見てみたい」という言葉によって印象的に伝えられている。同じように、記憶に形を持たせる、見えるものとして扱う描写は以下のようなところにも見られる。

 

だが、いまウィスタンと老騎士の話を聞いていて、ようやく記憶の断片がよみがえってきた。ほんの断片にすぎないが、それでも、手に取って見つめられる何か[something to hold and examine]ができたことで心が安堵した。(172)[120](強調は引用者による)

 

この場面でも、アクセルのよみがえってきた過去の記憶を断片として、目に見える形で形容している。それのみならず、「手に取」れるという、触感まで視覚から導き出されている点にも留意してよいだろう。

 しかし、霧が晴れて浮かび上がってくるのは、かならずしも見たかった記憶だけではない。忘れた方がよかった記憶、思い出したくない過去などもそこには含まれている。そのような記憶がよみがえってしまった後、どう向き合っていくかというのが、アクセルとベアトリスに課される試練となる。道中では、しばしば、好ましくない過去と対峙することの困難さが描き出されている。ガウェインがウィスタンに促され、アクセルの顔を見つめて過去への糸口を探す場面では、おそらくアクセル自身もアーサー王や戦いに関する記憶の想起を恐れて、「アクセルが本能的に顔をそむけ」(167)てしまう。また、修道院の洞窟の場面で、先頭を歩くガウェインが、「ここには見ずにすませたほうがよい[best left unseen]ものが多いぞ」(254)[182]と、過去に幽閉されて死んだ人の遺物などを見て、記憶に残すことを避けるように促す。

 さらに困ったことには、冒険が進み、健忘の正体や失ってしまった記憶の断片が明らかになっていくうちに、記憶の回避以上に困難な問題が、アクセルとベアトリスの二人の間に横たわることとなる。クエリグの息のせいで、一方が覚えていることをもう一方が覚えていない、または、同じ出来事を想起しているはずなのに、それぞれで記憶の細部が異なるなど、過去の出来事に対しての両者のズレがたびたび表れていたが、旅を続けていく中で、いま―ここで二人とも同じものを見ているはずなのに、それぞれで“見えているものの食い違い”が起こりだす。例えば、同じく修道院の洞窟で、アクセルとベアトリスは一瞬見えたものに対してそれぞれ全く違うものだと予測する。

 

「足が触れた瞬間、赤ん坊だってわかりましたよ」

「何を言っているんだい、お姫様。あれは赤ん坊じゃない。何を言っている」

「哀れな子に何があったんでしょう。あの子の両親は?」

「ただの蝙蝠だったよ、お姫様。ああいう蝙蝠は暗い場所によく集まる」

「いえ、赤ん坊よ、アクセル。絶対にそう」(255)

 

このような食い違いは、暗くて視覚が制限されていた洞窟の中だけにとどまらず、見晴らしのいい屋外においても表れた。旅が進んでいくにつれて、見えていくものに対する食い違いは決定的になる。

 

「あそこよ、アクセル。わたしの指をたどっていって。あれは兵士の隊列じゃないこと?」

「ああ、見えた。そんなふうにも見えるが、動いてはいるまい?」

「動いていますよ、アクセル。それに一列で進んでいるから、やっぱり兵隊かも」

「わたしの悪い目では、全然動いていないように見えるよ、お姫様。 … 」(368-369)

 

この後に続く場面で、悪い記憶を思い出すことに対する恐怖や、不安に対しても二人は意見が食い違うこととなる。この場面では、視覚から記憶へと話題が連続的に移されており、どちらを話題にしていても、アクセルとベアトリスの会話は食い違っていて、お互いが自分の主張を曲げることなく、平行線をたどっている。そして、ベアトリスは「アクセル、教えて。雌竜をほんとうに退治できて、霧が晴れはじめたときにね……そのとき何が見えてくるのか、怖くなることがない、アクセル?」(374)と、アクセルに対して、悪い記憶を思い出すことへの不安を口にする。アクセルはそれに対して、いったんは慰めるものの、その前に何を話していたか思い出せない、喧嘩でもしていたか、というベアトリスの問いかけに対して、「思い出せないのなら、忘れたままにしておくのがいいよ、お姫様」(375)と答えてしまう。この返答によって、アクセルはこの段階ではまだ、悪い記憶を思い出すことに対する防衛反応を捨てきれていないということがわかる。

 しかし、二人はこの困難を絶えず乗り越えようとしている。二人の間には、良い記憶も悪い記憶もすべて合わせて思い出したい、二人の思い出を何一つ失ったままでいたくないという願いが根底にあるからだ。悪い記憶を思い出したくないという、ある種本能的な欲求に抗おうとするベアトリスの姿が、ウィスタンとガウェインの戦いの後に見られる。ベアトリスは、戦いが始まる前に、「背を向けていますから、終わったら言ってね、アクセル」(435)と言い、戦いの惨憺な光景を自身の記憶に残すことを拒否しようとする。しかし、戦いの最中に、彼女が祈りの言葉を呟いたことから、「では、ベアトリスはずっと見ていたのか」(437)とアクセルは推測する。そして、ウィスタンの勝利に終わり、瀕死のガウェインが倒れるそばに近寄ろうとするときに、「アクセルもベアトリスを強く抱き寄せた。そして体を離し、地面に横たわるガウェインの体がもっとよく見えるよう、石段を少し下りた」(438)とある。ベアトリスが横たわるガウェインの姿を見ているかは定かではないが、直後に彼について言及していることから、見ることを拒否してはいないと考えられる。また、ガウェインのことを「良い人」として記憶にとどめようとする態度もある。戦いの歴史や、その敗者の記録も含めて、記憶として保持する。そういった、血なまぐさい歴史の受け止め方が、この場面のベアトリスに表れている。

 この悪い記憶への対峙は、記憶に残すことだけでなく、過去の記憶とどう向き合っていくか、という面でも表れている。第六章はアクセルの寝る前の回想形式になっているが、その日あった出来事を回想するなかでベアトリスと出会ったきっかけの会話を思い出す。このような、近い記憶から、遠い過去の出来事を思い出す操作によって、その日あった出来事への見方が固定化されていく。それだけでなく、ここでは、再び過去の記憶や既知の情報を用いて、近い記憶を自分のなかで位置づけなおそうとする語りで終わっていく。

 

いや……ベアトリスが恐れていたのはそんな質問ではない。恐れていたのは船頭の質問だったはずだ。[Beatrice, he knew, feared the boatman’s questions, ] あれはジョナス神父の質問よりずっと答えるのが難しい。だからこそ、ベアトリスは霧の原因がわかってあんなに喜んだのではないか。聞いた、アクセル? ベアトリスは有頂天だった。聞いた、アクセル? ベアトリスは顔を輝かせてそう言った。(241)[172](強調は引用者による)

 

ここでのアクセルの記憶の想起は無秩序であり、まとまりがない。しかし、アクセルとベアトリスの間にある最も悪い記憶に起因する、アクセルの嫉妬の感情を、彼自身は原因を追究してどこかに位置づけようともがいている。

 このように、認識や記憶の共有の認識の困難さから始まり、悪い記憶への対峙の問題が全編において通底している。そしてサクソン人とブリトン人という民族間の不和の歴史が、アクセルとベアトリスの二人の記憶に重ねられて、物語が進行していく。

 

<2>聞こえること―特異点としてのエドウィン

 エドウィンは、竜による傷が体にあることによって竜の声が聴こえる特別な存在となるのだが、その前から、エドウィンが戦士の素質があることは村の老戦士によって見抜かれていた。

 

降ってくる拳骨の雨のなか、君の目は冷静だった。 … あれこそ最高の戦士の目、荒れ狂う戦いの嵐の中でも沈着に動ける戦士の目だ。(132)

 

エドウィンの戦士の素質は目にあり、実際に、高いところに立って広い範囲を見下ろせるような木を知悉していたりと、彼の視覚は他の人々よりも優位である。そんなエドウィンを戦士として育てるために、「わたしは殺し合いを見たくないので、後ろを向いています。エドウィンにもそうさせてくださいませんか」(188)というベアトリスの申し出をウィスタンは拒否する。

 だが、エドウィンが最も重きを置いているのは母の声、すなわち聴覚である。母の声に従おうとするあまり、先を急ぎ、師であるウィスタンに反抗的な態度をとるようになる。そこには、エドウィンが“じっくり見る”といったことへの嫌悪があるからだ。

 エドウィンが持つ幼少期のエピソードに、旅をする少女とのものがある。ここでは、少女を“見る”ことによる加虐が描き出されている。

 

「なぜって、見たいからじゃないの。わたしがほどこうってするのを見るのよ[Watch me try to get free]」(285)[205]

「自分で何とかして両手を自由にできるまで、何も言わずに、ただ見てるの。そこにすわって、股座から悪魔の角をはやしながらいつまでも見てる[Until then they sit there watching and watching, their devil’s horns growing between their legs]。 … 」(287)[206]

 

このときには、エドウィンが少女を助け出すことによって、少女と一緒に旅をするほかの男性たちとは違った存在として描かれている。しかし、その後、少女を思い出すときに、少女が憎むほかの男性たちと同じ視線を獲得してしまっていることに気が付く。

 

だが、そのあとの数週間というもの、思いがけないときに少女の面影が鮮明によみがえってくることが何度もあった。 … そんなとき、決まって股座に悪魔の角が生えてくる。最後に角は消えるが、あとに恥の感覚が残る。少女の言葉がよみがえってくる。「なんでここに来たの。お母さんを助けにいけばいいのに」(289)

 

 その恥の感覚と、その際に少女に言われた「お母さんを助けにいけばいいのに」という、母を助けられない自分の弱さが重ね合わされて、エドウィンの罪の感覚がここで作り出されている。視覚の暴力性という面を感じ取っているからこそ、かえって母の声という聴覚をより強く信じるようになっていく。

 エドウィンが戦士の目を持つこと、そして聴覚によって竜への導き手となれるという二つの能力があることで、アクセル一行の竜退治に同行することとなった。これにより、戦いが終わった世界において、次の世代への橋渡し、先導者としての役割も課せられることとなったのである。そのような、継承世代の象徴としてのエドウィンには、大きく分けて二つの可能性が残されたまま物語は閉じられる。一つは、健忘の霧が消えたことにより、サクソン人とブリトン人の流血の歴史が反復されてしまうこと、もう一つは、霧という法が消えたのちも、かつてのアクセルの意思を受け継ぐような形で、「平和の騎士」として両民族の平和に貢献するという未来である。

 ウィスタンには、ブリトン人への「慈悲の心」という弱みを持たない、冷血な戦士にエドウィンを育て上げるといった狙いがあった。つまり、ウィスタンに代わってブリトン人に復讐することを託された存在なのである。したがって、ウィスタンはエドウィンに過去の自分の民族の被害の歴史を語り、ブリトン人全体への憎悪の心を育てることで、自分を含む民族の歴史を継承させようとする。

 

個人的アイデンティティより民族アイデンティティを優先するようエドウィンに説く。ここで注目すべき点は、共同体で共有する復讐心は実際には個人的感情から発しているということである。異民族の特定の人に対する愛や尊敬心という個人的感情が、共同体の感情へと容易に昇華しないのに対し、個人的な憎しみの感情は容易に民族全体の復讐心へと収斂していく。アーサー王が懸念した復讐と戦争の連鎖は、愛と平和の連鎖よりもはるかに容易に起こるのである。[2]

 

 また、竜とエドウィンの関係が、他の人々よりも近しい距離にあるように描写されている点から、アーサー王伝説における魔術師マーリンの原型となる子供と、エドウィンの類似性も読み取れる。魔術師マーリンの幼少期となった子供は、五世紀半ばのブリテン人を背景とした「赤い竜と白い竜」の物語に表れ、竜の出現と王の没落を予言した[3]。この文学的記憶と結びつければ、エドウィンが魔術的な力によって、次なるアーサー王たる人物の再生産を行うことも推測できる。

 第二の可能性としては、サクソン人とブリトン人の和平の立役者にエドウィンがなるという未来だ。筆者はこちらの可能性の方を強く論じたい。

ウィスタンは、アクセルとベアトリスとの旅を通じて、自分の中に「恥ずべき弱さ」(447)があることを見出す。よって、復習が不可能となった自分の代わりに、ブリトン人に対する完全な復讐心を持つ戦士としてエドウィンを育て上げようとする。だが、傷つけられた歴史を持つウィスタン自身が、「弱さ」を持つことを示唆することで、「被征服されようとする側にとっての望み」[4]という希望が浮かび上がる。師自身に大きな影響を与えた旅路の記憶は、同じように弟子にも強く残っているであろう。

 

彼らの旅中、ずっとブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスが同伴であったこともある。この老夫婦は彼の身の上を同情し、いつも心優しくしてくれていた。それ故に、ウィスターから彼自身もできない「すべてのサクソン人を憎め」という約束をさせられた時に、とっさに思った:「その中でこの老夫婦も含まれているのか」と。

 

こうしてみると、ウィスターの持っている「恥ずべき弱さ」が、エドウィンはすべて捨て切れるものではなかろう。いや、それ以上に持っているであろう。そして、これもまた、以前の悲劇を繰り返さない、もう一つの希望になるのである。[5]

 

 もう一つは、エドウィンの中にある視覚の暴力性の自覚と、聴覚への依存である。エドウィンはクエリグ退治の際には山羊とともに繋ぎ留められたままになっており、全く戦士としての役割を果たせない。しかし、クエリグが倒されたことは、目に見えずとも、彼は感覚で悟る。

 

突然、母さんが去ったという確かな思いが沸き上がってきて、眠りから引き戻された。それから動かず、目を閉じて、ただ「母さん、いま行くから。もうちょっと待ってて」と地面につぶやきつづけていた。(450)

 

 すぐ後にアクセルとベアトリスに会い、ウィスタンの無事を知る。しかし、ここでは師であるウィスタンはなぜか不在である。つまり、竜が倒れた、母が去ったあと、彼が最初に会ったのはブリトン人の二人であったのだ。ウィスタンが自分を待っているという知らせを聞き、向かおうとするが、振り返って不思議な思いに囚われる。

 

いまぼくを見ているけど、あの奇妙な表情は何。二人の後ろでは、いつも動きまわってしかたがない山羊までが、立ち止まってぼくを見ている。不思議な思いがエドウィンの心を通り抜けていった。ぼくはいま頭のてっぺんから足の爪先まで血に濡れている、と思った。だから、みんながああやってじろじろ見つめているんだ[and this was why he had become the object of scrutiny]。(452)[328](強調は引用者による)

 

エドウィンは、アクセルとベアトリスの二人が息子に抱くものと同じように、母の呼び声を希望としていた。しかし、自分が何もできないまま、冒険は終焉を迎え、母に呼び掛けても応答がなくなってしまう。そこで彼が感じたのは、拠り所がなくなった喪失感・不安と、自分の無力に対する罪の意識である。その意識は、二人や山羊からの視線や自分の身が血に濡れているという不思議な思いによって表れている。ここでも、「じろじろ見つめ」られていることが、ある種の責苦となって強い力を持って自身に向けられていると、エドウィンが感じている。これは、以前に感じた少女に向けられる視線と同一のものであろう。

 ところが、ブリトン人の言葉でまずアクセルが声をかけ、次にサクソン語でベアトリスが声をかけることで、彼の思いは変わる。ベアトリスの聞き取りにくいサクソン語や、風の音に邪魔されながらも、

 

エドウィン、わたしたち二人からのお願い。これからも、わたしたちを忘れないで。あなたがまだ少年だったころ、老夫婦と友達になったことを思い出して」(453)

 

というメッセージを受け取る。それから、旅路を思い出し、ウィスタンとした約束のことを思い出し、ウィスタンのもとへ再び向かっていく。確かにエドウィンはウィスタンのもとに戻る結末になっているのだが、それがアクセルとベアトリスの二人からの呼び声がきっかけとなっていることに留意するべきだ。旅路の記憶がよみがえってきたことで、新しい拠り所を発見する。「風が一方から体を押してきても、もう平気だ[even with the wind pushing from one side, his body did not fail him]」(453)[328]というエドウィンの独白は、次世代の屈強さと、ある一方からの声に流されない多角さの比喩として、希望を描き出している。

 

 

◆結論―喪失を見出す旅

 アクセルとベアトリスの二人は「兎の巣穴」(13)と形容されるような、外部との関わりを遮断された周縁的な場所から、他の村にいるらしい息子の存在を求めて、外部への旅に出ていくこととなる。これは、アーサー王伝説における“聖杯探求”と似た、いわばクエストの一種ともいえようが、その典型とは質を異にする。まず、主人公たる二人の設定である。「イシグロの小説でクウェストを担うのは、伝統的なロマンスの英雄たちとはおよそかけ離れた、年老いた夫婦アクスルとビアトリスである」[6]ことから、竜や宿敵との戦いは、ウィスタンやエドウィン、ガウェインに担わされる。彼らは羊を山の上に運んだりなど、周辺的な役割でしか、竜退治に関与しない。もう一つは、二人の結末である。二人は、お互いに支え合って生きる仲睦まじい夫婦として描かれていた。だが、クエリグの息の効果が弱まっていくにつれて、二人の過去の諍いの断片が浮き上がってくる。そして、結末は、船頭には認められるものの、二人が揃って島に行くことはできず、いったん離れ離れになるといったものである。この結末について、Tiedemannは島に渡ることを「死別と死後の暮らしのアレゴリー[7]としたうえで、

 

ここでは、アクセルとベアトリスは、お互いに気の合った、幸福な関係性の二人として物語を始めているのに、物語が展開するにつれて、彼らの間に不和が起こる。その不和が過去のものに由来するにもかかわらず、最後には二人は二度と会うことがないように引き裂かれてしまうのだ。[8]

 

と指摘する。これも、冒険や探求の末に大団円が待ち受けているといった物語構造とは沿わない点である。

また、アーサー王伝説に照らし合わせてみても、伝説内の記述と、『忘れられた巨人』は真逆の関係にある。マロリーの『アーサー王物語』の、『アーサーの死の物語』では、アーサーのゆくえについて、

 

 しかしイングランドの色々な所で、アーサー王は死んだのではなく、主イエスのみ心によって別の場所に連れて行かれたのだと言われています。そしてまたいつの日にか帰って来て、聖なる十字架を勝ち取るだろうと言われています。しかし私はそうだとは言いません。むしろ言いたいのは、アーサーはこの世での生を別の世のものに変えたと言うことです。そして多くの人々が墓の上に次のように書かれていると言います。

  

  ここにアーサー横たわる、過ぎし日の王にしてまた未来の王なり[9]

 

と記しているが、『アーサーの死の物語』で示唆されているどちらの結末にしても、ブリトン人の民族が再び危機に陥った際に、英雄は復活し、再びカメロットが築かれることが暗示されている。つまり、民族復興や繁栄の祈りがこめられて物語が閉じているのだ。

 だが、『忘れられた巨人』の物語背景では、アーサー王は抵抗のない人々や子供を殺した罪深い侵略者としての側面を持つことが明らかになり、最後には人々の記憶を奪う雌竜の息を使って平和を保つ。雌竜クエリグの守護者としてガウェインがいるが、その人物像は、騎士道精神に縋りつく懐古的なものとして、カリカチュアライズされている。アーサー王の治世がもたらした負の側面が明らかになっていくなかで、クエリグが倒され、「アーサー王の影も雌竜とともに消える[Arthur’s shadow will fade with her]」(447)[324]運命である。

このように、多くの点で『忘れられた巨人』は、冒険物語的でありながら、その性格は必ずしも物語構造とは一致しない。その最たるものが目標物の獲得についてである。アクセルとベアトリスの二人は息子に再開して共に暮らすことを目標として旅立ち、“息子が自分たちに会うのを待っている”という期待が希望となって、旅を進める原動力となっている。

 

「 … 確かに、少年の安住の地はブリトン人の村でしょう。息子の村ならきっと受け入れてくれるでしょう。息子も、そこではひとかどの男であることですしね。歳は若くても、実際には長老の一人のようなものです。きっと少年のためにできるだけのことをしてくれると思います」(130)

 

「もう少しだけ休みましょう、アクセル。そしたら、また二人で出かけましょう。うまく艀が見つかって、旅が速まるといいけど。なぜ遅れているのかって、息子もきっと心配しているでしょう」(275)

 

 しかし、クエリグが倒された後に二人が思い出すこととなったのは、息子がもう死んでしまっていること、さらに、息子の死がアクセルとベアトリスの過去の不和がきっかけとなって起こってしまったことである。つまり、旅の目標であり、二人の共通の希望であった息子という存在が、とうの昔に喪失していたことを突き付けられるのである。

 この息子の喪失に対して、二人の反応は大きく異なっている。ベアトリスは島に渡ることによって、より息子の存在を近くに感じられるときがあることを感じ取り、島へ渡ることを願う一方で、アクセルは、島は自分たちにはもう必要ないものだと主張し、島に渡ることに歩を進めようとしない。

 第十七章は、船頭による一人称語りによって、アクセルとベアトリスが描写されている。船頭から見て、二人は疲弊しきっており、弱々しく描写されている。ここでも、依然として二人の食い違いはある。

 

「妻がいま言ったのは、熱に浮かされての言葉だと思います。わたしたちに島は必要ありません。この木の下で雨が過ぎ去るのを待って、先へ進みます」

「何を言うの、アクセル」 … 「息子はもう待ちくたびれていることですよ。この船頭さんに入江まで案内してもらいましょう」(458)

 

 そして船頭が二人で島へ渡れるかどうか判断するために、まずベアトリスの話を聞き、次にアクセルの話を聞く。そこで、アクセルは船頭に聞かれて、息子の話を離す。その際にアクセルは、島へ渡してもらう判断材料として、ベアトリスの不貞の話は悪く働くだろうと思うものの、起こった出来事を正直に話し、さらに、自身の後悔の感情についても正直に吐露する。このような、過去をありのままに語ること、自分の抱いた感情を良い面も悪い面もひらくこと、それが、いままでに積み重ねてきた二人の歴史や、過去の見つめなおしによって可能になっている。

 

「 … いま思うのは、何か一つのきっかけで変わったのではなくて、二人で分かち合ってきた年月の積み重ねが徐々に変えていった、ということです。結局、それがすべてかもしれません。ゆっくりしか治らないが、それでも結局は治る傷のようなものでしょうか。 … わたしの話を聞いて、わたしたちの愛情には傷があるとか、壊れているとか考える方もいるでしょう。しかし、老夫婦の相互の愛が穏やかに進むこと、黒い影も愛情全体の一部であることを、神はおわかりくださるでしょう」(471-472)

 

 過去の記憶を、自分の感情をも交えながら、誠実に話そうとするアクセルの態度が、過去の歴史や記憶の堆積との向き合い方という問題に対しての一つの応答として描かれている。「イシグロの主人公たちのクウェストは、何かを得るためのものではない。達成と充足へ向かうのではなく、喪失するためのものであり、消滅へ向かうものであった」[10]という指摘はあるが、息子探しの旅が達成されなかったとしても、二人の関係性は旅を通して変化している。最終目的にはたどり着けなくとも、それに代わる「相互の愛」を二人は獲得しているのである。

 最後の場面において、体が弱っているベアトリスが先に舟に乗って島へ渡ることになるが、テニスンの『アーサーの死』や三途の川などの文学的記憶と相まって、読者に死別の印象を強く与える。だが、これは読者に対してだけでなく、物語内のアクセルに対してもそう思わせたであろう。だからこそ、アクセルは最後の最後までベアトリスのそばを離れようとはしなかったのだ。最終的にベアトリスに説得されて、一人で岸に残るところで物語は終わるのだが、船頭と目を合わせない彼の描写から、アクセルが船頭に対して不信感を依然持っていることは明らかだ。認識の異なる他者の意見が自分と異なっていたとしても、それが信じるに値する人の言葉なら受け入れてみること、こうした姿勢は、これまで見てきた二人の口論とは違った側面である。このような態度もまた、異なる歴史を持つ他者との共存に向けての鍵となるのだろう。

  •  記憶についての問題は、今も昔も変わらず我々に根を下ろしている。忘れること、思い出すこと、二つの状態の双方向の遷移が、意識的にも無意識的にも行われている。個人の記憶について、“忘れた方が良い”記憶は往々にして存在する。なおかつ、そうした悪い記憶は、忘却していたこと自体を忘れる、つまり、最初からなかったこととしていた方が、無邪気に、安逸に日々を送ることができる。悪い記憶の存在を殺すことで、そこから現在の自己・コギトを遊離させることが可能になってくるのだ。

 だが、共同体の中で生きる、集団的存在としての人間を考えると、忘却の善悪が問われる。集団において、被虐の過去は消し去られた方がいいのか、戦争をしないためには戦争の悲惨さ(主として自国民の被害の過去)を伝えればいいのかなど、個人を超えた枠組みとしての在り方についての多くの課題が叫ばれている。政治哲学の分野では、マイケル・サンデルが、ドイツのホロコーストに対する賠償金や、日本の慰安婦問題やアメリカの黒人奴隷への賠償を例に挙げ、遠い先祖の犯した罪を、子孫がどこまで責任を負うべきなのかという問題について論じている[11]カズオ・イシグロ自身も、奴隷や被占領による過去の痛みに目を向け、社会変化と個人の記憶の両方に焦点を当てた小説として、『忘れられた巨人』を執筆したと語る[12]。もちろん、このような記憶の問題に対して、我々がすぐに答えを持つことは難しいし、そのようなどれにでも当てはまる答えというものは存在しないだろう。しかし、本作の結末におけるアクセルの、認識の異なる他者に真摯に向き合い、共存を図る態度は、そうした問題への一つの応答として描かれる。たとえ二人の行く末が死別であったとしても、彼の態度には心打たれるものがあり、ベアトリスの向かう彼岸だけでなく、アクセルの見つめる此岸が平穏なものであってほしいと願わずにはいられないのだ。

 

 

◆参考文献

カズオ・イシグロ忘れられた巨人』(土屋政雄訳、2017、早川書房

・Kazuo Ishiguro, The Buried Giant (2015, Faber & Faber)

(1)森川慎也「カズオ・イシグロの運命観」(年報新人文学(14), 46-77, 2017)

(2)平林美都子「The Buried Giantにおける記憶と忘却の物語」(愛知淑徳大学論集-文学部- 第43号 2018.3, 41-51)

(3)デイヴィッド・デイ『図説 アーサー王伝説物語』(山本史郎訳、2003、原書房

(4)(5)陶友公「《忘れられた巨人》に隠された希望」(愛知工業大学研究報告 第 53 号, 21-26, 2018)

(6)(10)原英一「カズオ・イシグロの文学―マジック・リアリズムと沈黙の語り―」(東京女子大学比較文化研究所紀要 78, 41-57, 2017)

(7)(8)Tiedemann Mark “Memories Suppressed and Memories Lost: Kazuo Ishiguro's The Buried Giant and His Earliest Works” (The Journal of Nagasaki University of Foreign Studies 22, 161-167, 2018)

(9)サー・トマス・マロリー『完訳 アーサー王物語 下』(中島邦夫・小川睦子・遠藤幸子訳、1995、青山社)

(11)マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(鬼澤忍訳、2010、早川書房

(12)‘“I Remain Fascinated by Memory” :Spiegel Interview with Kazuo Ishiguro.’ Interview by Michael Scott Moore and Michael Sontheimer.(https://www.spiegel.de/international/spiegel-interview-with-kazuo-ishiguro-i-remain-fascinated-by-memory-a-378173.html)

 

[1] 森川慎也「カズオ・イシグロの運命観」(年報新人文学(14), 46-77, 2017)p.51

[2] 平林美都子「The Buried Giantにおける記憶と忘却の物語」(愛知淑徳大学論集-文学部- 第43号 2018.3, 41-51)p.47

[3] デイヴィッド・デイ『図説 アーサー王伝説物語』(山本史郎訳、2003、原書房)pp.31-35

[4] 陶友公「《忘れられた巨人》に隠された希望」(愛知工業大学研究報告 第 53 号, 21-26, 2018)p.23

[5] ibid., p.24

[6] 原英一「カズオ・イシグロの文学―マジック・リアリズムと沈黙の語り―」(東京女子大学比較文化研究所紀要 78, 41-57, 2017)p.45

[7] Tiedemann Mark “Memories Suppressed and Memories Lost: Kazuo Ishiguro's The Buried Giant and His Earliest Works” (The Journal of Nagasaki University of Foreign Studies 22, 161-167, 2018) p.163

[8] ibid., p.164

[9] サー・トマス・マロリー『完訳 アーサー王物語 下』(中島邦夫・小川睦子・遠藤幸子訳、1995、青山社)p.575

[10] 原英一「カズオ・イシグロの文学―マジック・リアリズムと沈黙の語り―」(東京女子大学比較文化研究所紀要 78, 41-57, 2017)p.48

[11] マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(鬼澤忍訳、2010、早川書房)第九章の議論を参照のこと。

[12] ‘“I Remain Fascinated by Memory” :Spiegel Interview with Kazuo Ishiguro.’ Interview by Michael Scott Moore and Michael Sontheimer.(https://www.spiegel.de/international/spiegel-interview-with-kazuo-ishiguro-i-remain-fascinated-by-memory-a-378173.html)