『アダム・ビード』における陰画

 

★『アダム・ビード』(”Adam Bede”):1859年 イギリス・ヴィクトリア朝時代の女流作家ジョージ・エリオット(George Eliot)による長編小説。16世紀の農村を舞台にしており、中流階級のリアリズムを描き出した。実直な大工のアダム・ビードはヘイスロープ村に過ごしており、そこにメソディストのダイナ・モリスがやってきた。アダムは村一番の美貌を持つが虚栄心の強いヘティ・ソレルと婚約するが、ヘティは地主の孫で軍人のアーサー・ドニソーンと関係を持っており彼の子を身ごもっていた。アダムとの結婚式の前にヘティはアーサーの元へ行こうとするがかなわず、産まれてしまった子供を殺してしまう。裁判でヘティは死刑を宣告され、アダムは悲しみに暮れる。その後、アダムとダイナは惹かれ合い、結婚する。

 

Adam Bede (Oxford World's Classics)

Adam Bede (Oxford World's Classics)

 

 

 

アダム・ビード

アダム・ビード

 

 

 

 「かわいそうなヘティ」は、彼女自身の性格から、その愛らしいルックスとは裏腹に惨めな最期を迎える。彼女はアーサーにも、アダムにも、結局のところ救われることがないまま、大団円から姿を消す。ヘティはなぜ助けられなかったのか? 彼女の最も大きな受難であった旅(36章・37章)に注目しながら、考察を行った。

 

◆孤独

 ヘティの旅は孤独である。彼女自身の抱える不安やプライドによって、誰にも事情を明かさずに一人で旅立つことを余儀なくされる。加えて、旅の途中においても、やはり彼女は他者と分かり合うことができず、ますます孤独に追い込まれていく。なぜなら、彼女には耐えがたい苦難によって、「(引用者注:ヘティの心には)他の人々の悲しみに対する余裕はなかった」(AB,333)[1]からだ。彼女が「ある種の仲間意識」(AB,335)を感じるのは小さなスパニエル犬で、自分の生との対話を行うのは池での孤独な時間においてである。他の人々へ共感を広げることができず、親切にしてくれた地主一家にも歩み寄ることができず、ディスコミュニケーションが起こる。

 

「君がそれを買ってもらいたくても、宝石商はひょっとしたら盗んできたのかと思うかもしれない」地主は続けた。「なぜなら、君のような若い女性がそんなちゃんとした宝石を持っていることは珍しいから」

 ヘティの頭に怒りで血が上った。「私はちゃんとした人々の一員なのよ」彼女は言った。「泥棒なんかじゃない」(AB,342)

 

地主の言ったことはもっともであり、ヘティを心配しての言葉にもかかわらず、彼女のプライドの高さ、そして他者の視点に立つ経験の乏しさから、心配する意をくみ取れず、あたかも目の前で自分が疑われたように感じてしまうのだ。そして、彼女の涙は、ただ自分の身の上の辛さだけを思って流れる。

 

◆語り手の共感の欠如

 ヘティが読者からの共感を抱かれ得ないのは、まず語り手が彼女の心情から距離を取って、彼女の心情に肩入れせずに描写を行っているからだ。

 ヘティが旅への出立を考え始める35章で、語り手は、「そう、アーサーはウィンザーにいる。そして、彼ならきっと彼女に怒ったりしないだろう」(AB,330)と地の文で語り、一見ヘティの考えを支持するようであるが、旅が始まってみると語り手はヘティの無計画さを暴き出して非難する。

 

ヘティは自分が育った場所での単純な観念や慣習を超えたすべてのものにはまるで無知だったので、どうにかしてアーサーが世話をしてくれて、怒りや軽蔑から匿ってくれるだろうなんていう、ひょっとしたらありうる未来以上のしっかりした考えを持つことができなかった。(AB,333)

 

語り手は初めからこの旅への賛成はしておらず、ヘティの心内からは一線を画した位置から描写を始める。ヘティの境遇に対して哀れんではいるものの、あくまでその境遇に陥ったのはヘティに原因があると思っている。彼女の世間知らずさを「仔猫のよう」(AB,333)、憔悴しきった様子を「メデューサのような顔」(AB,345)さらに、この共感のできなさを読者にまで広げるような注釈も加える。

 

「教区!」(中略)ヘティのような人の心にこの言葉がもたらす効果をあなた方はもしかしたらほとんど理解できないかもしれない。(AB,339、下線は引用者による)

 

ヘティの旅路は最後まで描かれることはない。肝心の彼女が最も痛みを伴った赤子殺しについては、語り手は描写することがない。旅の描写は、語り手のこのような独白をもって閉じられる。

 

彼女の疲れ切った足で骨折りながら歩く様、来た道に虚ろな視線を置きながら荷車に座っているところ、もしくは空腹になって村が近づいてほしいと望むことがないかぎり、決してどこに向かうか考えたり気にしたりしないことなどを見て、私の心は痛みを感じている。(中略)このような苦難に足を踏み入れてしまうことから、神があなた方や私をお守りくださいますよう。(AB,350)

 

ここでも、ヘティの様子を見て、胸を痛めているように見えながらも、結局のところは読者との関係に話題は移行している。語り手が感じる痛みはヘティへの共感からではなく、広げようとする共感もあくまで読者のものなのだ。

 

◆Adam’s Journey in Hope

 ここまで見たヘティの旅は、54章における、アダムがダイナのいるスノーフィールドへ向かう道中と対照を成す。頼みの綱としていたアーサーに最終的に会えないショックで正気を失うヘティに対し、アダムは出発を迷いながらも、「ダイナは行くことを禁止したわけではない」(AB,472)と感じ、「ダイナを愛し、また彼女に愛されるとわかること」が「まるで自分にとって新しい強さとなる」(AB,473)と思う。ここにはアダムのダイナに対する、確固たる理解がある。そのようなアダムに対して、旅路での人々も親切で、「町の誰もが彼に道を教えてくれた」(AB,474)。

 なかでも大きく異なるのが、道中の情景だ。ヘティの旅が二月の真冬だったのに対し、アダムの旅は十月の過ごしやすいある日曜日だ。降りだした雨によって悲しみをかきたてられ、夜の凍えるような寒さや闇によって孤独を強めるヘティにとっての情景とは反対に、アダムは雲一つなく、光り輝く晴れた十月の一日に、遮るものも何もなく見晴らしの良い丘の上でダイナを待つ。

 エリオット自身がジョン・ラスキンの風景への強い関心から発展させて、「感情的虚偽」[2]、すなわち「観察者自身の感情が外的な対象に転移されること」を、大っぴらに使う二流の詩人たちを批判するが、ここではあえてこの手法が用いられていることで、アダムの旅路に対するヘティのそれがより比較され、彼女のみじめさ、救われなさが際立っている。

 

◆暗部としてのヘティ

 ラスキンは、「美への愛」についての批判として以下のように著し、エリオットもこれに賛同する。

 

高貴な芸術の流派が堕落したのは、この特別な質に関する限り、美のために真実を犠牲にしたことにある。偉大な芸術は美しいものすべてを力説するが、偽りの芸術は醜いものをすべて省くか変えてしまう。(中略)このようなやり方から生じる悪い結果は二つある。

 第一。適切な引き立て役や、適切な付属物を奪われた美は、美として楽しまれることをやめてしまう。それはちょうど、全ての影を奪われた光が、光として楽しまれることはなくなってしまうように。白い画布は陽光の効果を生みだせない。画家はある場所を暗くしなければ、他の箇所を輝かせることができない。(後略)[3]

 

 光は、影が与えられてこそ眩く輝く。結末部における幸福を際立たせるために必須だった暗部をヘティという人物に負わせることで、アダムとダイナの両者へ読者は存分に共感を拡大することができる。なぜなら、暗部の存在こそが真実の芸術であり、またリアリズムでもあるからだ。そして芸術家がもたらすことのできる恩恵は、「共感の拡大」[4]であり、「偉大な芸術家だけが描くことのできる人間生活の絵は、平凡な人びとや利己的な人びとさえはっとさせて、自分から離れたものを注目させる」。

 よって、Gregorの「ヘティの悲劇はアダムの結婚という世界には存在しない。というのも、一つのリアリティ(引用者注:アダムとダイナ間の愛情のこと)を受け入れることは他を拒否することだからだ」[5]という指摘とは同じ着眼点に立つが、全く逆のことを主張したい。ダイナとの愛を描写し、それを読者が共感できるものに昇華するためには、ヘティの惨劇という影の部分が不可欠だったのだ。

暗部としてのヘティの役割は、35章における描写が象徴的に説明している。

 

2月のその輝く一日は、他のどの一日よりも強い希望の魅力を持っていた。ある人は穏やかな太陽の日差しの下で佇み、畝の端で向きを変える勤勉な耕馬のところにある門を見渡し、美しい一年が面前に全てあることを思う。木々や低木の列には葉は一枚もなかったが、草原はどんなに青々としていたことか! さらに、暗い紫がかった茶色の耕された土や裸の枝も美しかった。(中略)りんごの花の陰や、金色の麦の間、もしくは覆い隠すような木の大枝の下に隠れて、怒りで激しく脈打つ人の心があるかもしれないことを、彼は知ることはないだろう。もしかしたらそれは、若くてかわいらしい少女が、みるみるうちに大きくなっていく恥から逃れる場所を知らず、また人生は愚かな迷羊がたそがれの淋しいヒースの中を延々と遠くまでさまよい続けるようなものと同様のものだということを理解し、依然人生のつらい局所のうち最もつらい部分を味わっているのかもしれない。(AB,327)

 

 『アダム・ビード』の中で、ヘティの旅路は救われることがなかった。しかし、救われることのない陰画の存在によって、よりいっそう、アダムとダイナの真の共感・愛情は読者に印象深く刻まれるのだ。

 

◆参考文献

ジョージ・エリオット「ドイツ民族の自然史」(山本静子・原公章編訳『ジョージ・エリオット 評論と書評』、彩流社、2010、pp.53-114)

ジョージ・エリオット「ジョン・ラスキン『近代画家論』第三巻」(同上、pp.441-468)

Ian Gregor “The Two Worlds of Adam Bede” (From William Baker, Critics on George Eliot, George Allen & Unwin Ltd, 1973, pp.91-96)

 

 

[1] George Eliot, “Adam Bede”, ed. Carol A. Martin (Oxford: Oxford UP, 2008). ISBN 978-0199203475 からの引用。以下断りなくこの形式で引用する。

[2]「ジョン・ラスキン『近代画家論』第三巻」、pp.458 次に続く括弧内も同書同ページからの引用。

[3] 「ジョン・ラスキン『近代画家論』第三巻」、pp.448

[4] 「ドイツ民族の自然史」、pp.59 次に続く括弧内も同書同ページからの引用。

[5]The Two Worlds of Adam Bede” pp.94

月曜日の朝、雨降り、ポプラの木の上から

 月曜日、朝、寝坊する夢を見てそれがリアルに脳裡に残る。私は、非常に不出来な人間ではないかと思う。寝ては起きられず、仕事は真面目にゆかず、学業は振るわず、一途に一人の人を想うこともできず……。月曜を生きる人間には自分の思うようにならないところにばかり行き当たる、そんな日の朝にやることはUNISON SQUARE GARDENの3rdアルバム「Populus Populus」を聴くことです。論理が雑でしょうか? そうでもありませんよ。

 私は不真面目なリスナーで、快不快の感情のみで音楽を聴いているのだが、ユニゾンで一番おすすめのアルバムは?と聞かれれば「Populus Populus」と言いたいところだが、そうも言いきれない、その時々のテンションで「JET.CO」と言ってみたり「Dr.Izzy」と言ってみたりしている。「Populus Populus」とはどんなアルバムかと聞かれれば、他のアーティストに寄り道したって、結局はこのアルバムに立ち返ってしまうような一枚だと思っている。

 以前なんとなく、人に、「『Populus Populus』は構成がいい」などといった知った風な口をきいてしまったことがあって、それは何なんだろうと自分で考えてみる。今朝アルバムを通して聴いてみて思ったこととして、収録されている曲の大体の毛色が似通っているのがある。毛色というのが分かりづらければ毛並みと言い換えてみてもいいし模様と言い換えてみてもいい。とにかく、この曲今の気分にはまっていて聴いていて気持ちいいな、と思う曲の次の曲も同じ感情を呼び出してくれるのだ。

 最初の曲が「3 minutes replay」、歌い出しは「世界が変わる夢を見たよ だけど今日もひとりぼっち」。今朝方見た夢はこんなものではなかっただろうか。思い返してもどうにもならなくて、夢の中だからうまく体も動かせなくて。だがこの曲は決して暗い曲ではない。いわゆるアルバムの一曲目にふさわしい、とまではいかないが、ユニゾンにしては珍しく派手なイントロに始まる。「世界が変わる夢を見た」と言い切って終わり、間髪入れずに2曲目「kid, I like quartet」のドラムリフが始まる。

 みんな大好き「kid, I like quartet」はライブでおなじみですが、いわゆる盛り上がりやすいメロディに合わせて肯定する歌詞があるから良いですね。なんたって「as you like」ですから。その肯定というのは、「こんないいところがあるよ」という並みの肯定ではなくて、サビを聴くと分かるのだが、「悲しくなることもむかつくこともあるけどそんなの当たり前だよね」という冷めつつも泥臭い肯定である。前の曲と毛色が同じといった意味が解ったでしょうか。

 次に来るのが「プロトラクト・カウントダウン」。打って変わって時代・世界、そういうものを否定する、疑問を持つ。でもそれにはっきりした理由なんかなくたっていい、とにかく世界の方が間違っているのだ(「なんか違うよなんか違うなんか」)。「kid, I like quartet」とは違う負の感情の捏ね方というか、消化の仕方な気がしている。あとこの曲はBメロ→サビ前とか、サビ前半→後半などの静/動がはっきりしていて単純にかっこいい。

 次の曲は本当に大好きですね、「きみのもとへ」です。「反実仮想」って覚えていますか? そのことを歌った曲なのだが、ここでもうまくいかない世界というのがテーマになっているというのが分かるだろう。「できるなら 心と体を2つにわけて 君の元へ」なんて思わない人はいないんではないですか、知らんけど。最後になるにつれてVo.斎藤さんの歌い方がだんだん上ずっていくというか、切羽詰まっていくようになっていくのが本当に不思議に聞きやすい。ベースソロ前のCメロとかラスサビとかかなり上の方に音程がずれているのにしっくりくるのが良くて、一回歌うときに真似してみましたが全然できなすぎて逆にびっくりした。

 「僕らのその先」もラブソング風味なのだが、「君」が不在のラブソングだ。「夕方5時のベル 西日が眩しい街」などのノスタルジーが正統派なバラードに乗せられる。この曲はコーラスが非常に綺麗ですね。最近のものと比べるとアルバム通してやや音数が少ない分、コーラスが良く目立っていいです。

 「スカースデイル」もバラード。ここまで書いて今の気分が「Populus Populus」っぽいなと思う月曜日に閉じ込められた皆さんはYouTubeで聴いてみるといい(と思って探してみるとショートバージョンになってしまったらしい……。 https://www.youtube.com/watch?v=yhr5dBiv2UE )。ギターリフ(で合ってるのかな)が

悲しみを誘う。で、この曲から徐々に「始まり」へ志向していく。「ねえ 今を過去にするような 二人だけの明日を作ろう」。似たようなバラードの連続と見せかけて、私たちは悲しみから徐々に抜け出ていく。目を上げている。「始まりの朝はすぐそこまで」である。

 その次には可愛いメロディの「ワールドワイド・スーパーガール」へと雰囲気をがらっと変える。まあ落ち着いた曲調もそろそろ飽きが来たころである。この曲はかなりのバカだ。なんせ今までとは違って歌詞に中身が全然ない。てかワールドワイド・スーパーガールってなに? そんなこたどうでもいいんだよ。

麦わら帽子がやたらと似合うんだが笑わない彼女は

かなりのご都合主義

「ピアスなどは興味がないわ あるのは明日の天気だけよ」

だけど予報は信じない

とか言われたらかなりすべてがどうでもよくなりませんか?

 次の曲は一番の大バカで、私がかなり助けてもらっている曲だ。「CAPACITY超える」という。歌詞をめちゃくちゃ貼りたいと思う。

キャパシティ超える 事例があって困る

昨日の夜から 冷蔵庫扉が開いてる

キャパシティ超える 大好きだったドラマ

楽しみだったけど 先週末で終わってる

 

望んでいるのは金縛り

大嫌いなあのミュージシャンも一緒にお願いしたい

そこでハッとして さらにグッと堪えて

そうだ 動けなくなっちゃったら広い野原を走り回れない

 

キャパシティ超える キャパシティ超える

寝ても覚めてもおんなじ景色なら どうすりゃいいんだよ

キャパシティ超える ねぇマスターお願い

全部が全部忘れちゃうくらいのおかわりちょうだい

 私はこの歌詞すごいと思うし、さらに「Populus Populus」のこれまでの思想すべてを集約していると思っている。まずAメロでうまくいかない現実があり、Bメロで自棄になったり人を恨んだりするんだけど陋習の美しさや楽しみを見いだし、サビで直接問題を解決するわけではないけど、一つの終わりを迎えて、その繰り返しの毎日で。一見バカに見えますけどこれは天才の歌詞ですよ。メロディも神の領域で、まず前奏を聴くとベースがエグい曲かと思いきやギターのカッティングもところどころエモく、ドラムソロもちゃんとある。で、三つの楽器がずっとエグくほとんど全パートソロみたいなテンションでいくわけだが、サビに入る直前、歌詞で言うと「広い野原を走り回れない」のほとんどリズムのないボーカルの裏で三連符が揃う気持ちよさがすごい。そして1番、2番、Cメロ以降違ったメロディの展開をするという、アルバムの中曲とは思えないほどの力の入りよう。これは是非聴いて炊き立てのご飯を食べてほしい。

 「CAPACITY超える」について語りすぎてしまった感がぬぐえないが、アルバムでは間髪入れずカウントの後に「場違いハミングバード」が続く。これもYouTubeで聴いてもらえばいい、ということで流したかったのだが、消されてしまっていた……。実は私はヘ長調の曲が好きなので「場違いハミングバード」を聴くとほぼ100%その場で盛り上がってしまいます。何がかっこいいって諸説ありますがドラムですね、そんな気がします。最初の16分の細かい刻みからの派手なシンバルへの盛り上がりが良い。

 次が「カウンターアイデンティティ」。この曲は大切にしなければならないという気でいる。よく理解しているは分からないのだけど。音源化されるときに「カウンターアイデンティティ」となっているのだが、その前は「神に背く」または「少し黙ってろ」ともいったらしい。出だしがギターとボーカルのみで、「僕らは声が枯れるまで 存在、続ける」の一節と「Jesus」を高らかに歌い上げる。個人的にこの曲を「Populus Populus」の連続の一部として扱っていいのかどうにも決めきれない部分がある。サビの、

僕らは声が枯れるまで

存在し続けるんだよ太陽に背を向けながら

あなたの声が痛いほど突き刺さるから

どうにも思い通りに進まない

少し黙ってよ

は「プロトラクト・カウントダウン」と似た部分があるとは思っているが、やはり違う部分が大きくて、というのも、一曲で歌い上げるには内容が多すぎるのだ。太陽に背を向ける事、少し黙ってろと言ってしまうこと、そして「あなた」の存在をうまく位置付けることができない。今はよくわからないからこそ、大事にするべきなのだという気がしている。いずれ、意味がしっくりくるようになる日が来るんじゃないかと思っていて、その日が来るまで大事に持っておこうと思っている。

 「未完成デイジー」の境地にも自分でまだ至ることができていないと強く思う。「いつか僕も死んじゃうけど それまで君を守るよ」なんていう、終わりが見えているけどそれでも強い感情を人に言うことはできないだろうなと思う。デイジーは良い花ですね。

 その次に来るのが「オリオンをなぞる」で、この曲についてはここでそんなに書く必要はないんじゃないかと思っている。「未完成デイジー」と合わせて正統派ラブソングと言えるのではないですか、終わり。

 「オリオンをなぞる」で終わらないのがユニゾンのキモいところで、というのもユニゾンのアルバムは一曲目と最後の曲がシングル曲であるということはないんですね~、そして各アルバムの一曲目とラストを10周年の武道館で全てやったということがあるのでその二曲に非常に重きが置かれているというのがわかりますね。「Populus Populus」の最後は「シュプレヒコール ~世界が終わる前に~」。

ああ 聞こえてる 聞こえてるんだよ

ありふれたそのフレーズも 急かす星の囁きも

ああ 自分の声で届けたいから

何度でも何度でもここに立って、そして

 

あなたの名前を呼ばなくちゃ 夜が明ける前に

 

声が枯れても繰り返さなくちゃ 世界が終わる前に

 このフレーズの後に歌詞にはありませんが「way for the loser, way for the braver」のリフレインがあって終わる。このリフレインの歌詞はもういつの間にかとっくに月曜日の憂鬱を抜け出していて、大きな推進力を持っている。そう、なぜ「Populus Populus」を聴くといいかというのはこういうことだ。ままならない現実を歌いながら、いつの間にか無理なくそこから抜け出てしまっている。とても暗い穴に落ちていたはずなのに、実はトンネルで出口があったというような具合だ。わかりますか? 今朝ふと整合性をもって語れるんじゃないかと思ったのですが、案外うまくはいかないものですね。やっぱ実際聴いてみてくださいよ、こんな文章を読んでる暇があるんなら。

摘む(部分)

 教室では銃弾の代わりに視線が飛び交っていた。忍び笑い、咳払い、自然なように見えるある生徒の発言以下エトセトラは、その教室内部の者と外部の者とで読み取ることのできる意味に大きな懸隔がある。教師が持参したノートがそのまま写されていく黒板の上に貼られている「H中学校二年二組 明るくいじめのないクラス」のスローガンは、注意欠陥を持つ生徒の学習の妨げになるため撤去すべきである。

 学校の校舎を出て南を向くと、白くて大きく、そのうえ理想的に左右対称な山が聳え立っている。だがそれが果たしてこの学校の良いところなのだろうか。校歌で山の名を称えることは、素晴らしいことなのか。自然はただそこにあるだけで、僕らはシステムによってここに閉じ込められるに過ぎない。

 なぜ二十五歳にもなった僕がわざわざ中学校に足を運んでいるのかというと、僕がいま無職だからだ。ついこの間までは夕方にのそりと起き出し、歯をちゃらちゃらと磨き、遊びに行くようにふらりとバーのカウンターに立ち、そこはかとなく面白い話をしながら適当に酒をかき混ぜるだけでお金がもらえるまさに夢見ていた暮らしをしていたのに、うっかり人生を転落してしまったのだ。それはそれは痛々しい事故だった。

 事故のことは運が悪かったとしか言いようがないのだが、無職の状態は悪くない。福岡から荻窪のアパートまで電波に乗って飛んでくる母の小言を除けば、夕方にのそりと起き出し、飯をがぶがぶと食べ、遊びに行くようにふらりとコンビニに寄り、そこはかとなく面白いスマホゲームに課金するためにお金を払うまさに夢見ていた暮らしができるのだ。生活範囲が新宿~荻窪からせいぜい高円寺~荻窪に縮小しただけの話だ。

 そういうわけで、僕は小説を書こうと思った。それに、小説を書いて出版すれば、ロト6よりも高い確率でお金が手に入るらしい。簡単な話である、文学フリマ東京の出店費五五〇〇円よりも多く本が売れれば僕の儲け、それ以下であれば赤字である。全角一文字を十分の一円として、三〇〇〇文字の短編小説を書き、三〇〇円で売る。五五〇〇割る三〇〇、イコール一八あまり三であるから、十九冊売ればその瞬間から儲かることになる。僕は高校の時にクラスで冷凍の餃子を解凍して焼き直しただけのものを四〇〇人に売ったことがあるから、余裕の計算である。万事はうまい、うまくいくはずだ。

 

 

続きは『駒場文学』91号に掲載します。

発願

 鳩は基本的には好きな鳥である。基本的には、というのは語弊がある、彼ら・彼女らが地上にいる限りは良いやつらだと思っている。個体ごとに微妙に異なっている色彩の感じ、外界からのほんの些細な刺激で神経質に飛び回る様、歩調に合わせて自然にどうしようもなく連動してしまっているようにしか見えない首の曲折、どれも目を引くものだ。しかしその愛嬌あるいは微笑ましさは彼らが地上に二本の足をしかと着けているときのみであって、彼らがその翼をもって頭上を飛び回ったときにはもう彼らは見境なくあらゆるものを襲う糞尿爆撃機となるのだ。彼らの爆撃を受けた看板広告は、高明度のその白い汚れをもってして、今もなおレイプ被害を訴える被害者なのである。度々彼らはホームからJR駅構内に侵入し、通勤・通学の人々を混沌の極みに陥れている。最もむごい点は彼らの攻撃が完全なる無差別で行われるということである。彼らのうんこ爆弾は無作為な抽出によってその対象を決定しているため、選ばれた人・物は全くもって運が悪かったとしか言いようがないのだ。つまり、鳩サイドの落ち度はゼロなのだ。

 午睡を楽しんだ後、郵便局へ行く用があったので自転車に乗って近所の大きな公園を通過した。もう学校の授業は済むような時間帯なのだろうか、公園内には寒空の下走り回る子供たちが数人おり、急いでいるわけでもないから減速する。感受性の高い目で見ればこの公園も美しいのかもしれないが、何しろ近所であり、大それた慧眼を持っているわけではないから、公園内の描写は割愛する。しいて挙げるならば、坂が急で自転車の身にはつらかったが、隣を走る犬はものともしないようであり、自転車にも四輪あれば違ったのだろうか、とふと思ったまでである。

 順調に自転車を走らせ、歩道橋に差し掛かったあたりで、ハンドルを握る手の甲の皮膚に何か得体の知れないものに触ってしまった感覚、例えば映画館の暗闇で隣の席に座った人との手が偶然一瞬当たってしまった、例えば鼻血がうっかりとめどなく垂れて伝ってきてしまったような感覚、そのようなものが在り、そしてその新奇な刺激に感覚全てが向けられ、結果として支配され、侵食されていくような感覚、注意を向けすぎるがゆえに、それを肉体・臓物の中に迎え入れることになってしまうのではないかと思ってしまうようなパニックに陥り、遅れて、あーやってしまったという誰も責めることのできない深い悔恨。右手中指第一関節に付いた糞尿は幸いにして量は多くなく、すぐに洗い流せば精神的/肉体的ショックも少なそうである。忘れれば済む話だと自分を説得し、軽く右手を持っていたティッシュで拭く。

 このまっすぐな通りは自転車を走らせやすくて結構好いていたものの、再び同じ目に遭うのはごめんだから通るのを避けようかと考えたときに、そもそも以前もうこの町を出て就職するのだからこの道を通ることは二度とないだろうな、と考え、この場所を見渡す風景を写真に撮ったことを思い出した。二度とないと言われると、妙な反骨心から、二度とないなんてことはないだろうと思ってしまうものの、結局のところやはり今に至るまで訪れることはなかった。さすればこれは夢である。夢の中で糞尿を食らうとは最悪の極みだが、幸いにしてこの身体は自分の所有物ではなく、夢の中のみの借り物に過ぎないようだ。そう安堵すると同時に、これがれっきとした明晰夢であり、それと知りながらまだこの位相に存在できることを不思議に思い、自分が果たして夢と現実どちらに真に身を置く存在なのか、そもそも本体というか、コピー元のような概念は果たして存在するのかと恐ろしくなってしまう。ともかく今のこの身体が嫌になってしまったので、もしあやふやな世界であってもここではない、現実に行きたいと思い、痛みを感じれば目覚めるかと思って自転車のタイヤをがむしゃらに回していると、果たして人間にぶつかった。その人間は倒れたが、衝撃をものともしないようにすぐ起き上がった。やはり恐ろしい世界だ。そしてありがちなことにその人物は中学生のころの自分で、発狂するかと思ってしまうほどの恐ろしさにおののいた。何度見ても、その染めていないままの黒い髪、少し吊った目、部活動で肥大した下半身の筋肉は紛れもない自分のものである。そこで目が覚めた。

 卒業式で泣かないと冷たい人と見なされてしまうらしいが、卒業アルバムを捨てる人間も人でなしな気がするので、何度引っ越しを重ねても捨てることなく、こんなに重くて足手まといで気味と出来の悪い写真集を律義に新居に持ってきてしまう。クラス写真の一番下の段、左から八番目の写真に目を留め、こんな顔をしていたっけと思う。写真を見ないで、記憶を頼りにしてはもう思い出せないその顔は、いまどこで生きているのか、知ろうと思えば不可能なこともないのだが。集合写真で探しても、なんとなくそっぽを向いている写真ばかりで、つまらないと思ったが、一枚だけ笑っている写真があって、女のように美しかった。いつもこうしていればいいのに、と私は写真に語りかけた。

ありふれた春の日

この間、私に恋人ができた。ゆゆしき事件である。よくわからないうちに好かれていて、あれよあれよという間に付き合う段となってそのまま三か月経った。はじめのうちは始終緊張していて話すことひとつひとつに気を遣い、空回りもたくさんした覚えがあるけど、そこそこの時間一緒にいて私の方ではそことなく良い距離感というものをつかめた気がする。

 でも、たまに、わっと不安が私を誘って取り囲んでしまう。この人を私につなぎとめているものは何なのか。自分の中を底まで照らして探してみても、全然見つからない、だから不安はいつまでもなくなってくれなくて泣き出してしまいそうになってしまう。

 《真実の愛 とは》。真実の定義もいろいろあるけれど、私が求めてるのは確乎で永久不滅のもの、それに限る。

「それはさ、身も蓋もない話でアレだけど、やっぱり掛けてもらった時間とお金じゃない? 言葉とか態度ってその都度変わるものだし、なんかどーしても信用できない」

 昼間のファミレスで友人と辿り着いた結論は、そのとき食べた五百円のパスタと同じだった。最適解よりも妥協策のほうがそこらにたくさん転がってるから逆に安心して擦り寄ることができる。私たちは妥協のなかでゆったりと、目を瞑りながら暮らしている。――もしかして彼も?

 

 

「すみません、わたくし芸能事務所の者なのですが」

今でもはっきり覚えている。小学六年生のころ、原宿の竹下通り、可愛い可愛い私の妹がスカウトマンにそう声を掛けられた。少女漫画のような展開に興奮した気持ちはあったものの、幼かった私たちはどう返事をしていいか分からず、ひたすらまごつくしかなかった。その様子を感じ取ったスカウトマンが、畳みかけるようにさらに言った。

「良かったらお姉ちゃんも一緒にどうぞ」

 その時の気持ちは言いようもない。私は妹のオマケ、そんな今更な現実を知って怒ったり屈辱を抱いたりみたいな激しい感情は起こらなかったけれど、私の中の何かが確実に崩れ落ちて灰になった。崩れて原型をとどめなくなったそれは自意識というのかもしれない、とにかくそれ以来私の自己評価は不安定になってこの年まで元に戻ることはなくなってしまった。

 

 

 深夜のコンビニには客は私一人で、暇を持て余しまくったような様子の店員に一挙一動を見られている気配を感じて落ち着かない。しかしそんなことなど構うものか。何もかも構っていられない、えいえいと商品をカゴに放り込んでその勢いのままレジに出す。

 2リットルのコーラとカップ麺とポテチとパーティーサイズのチョコレート二袋、しめて千三百九十二円の重みを家まで運ぶと、出る直前までひとしきり泣いていた記憶が蘇ってまた涙がにじむ。一人暮らしの特権を利用してまた私はさめざめと泣いた。「ごめん、今週末も会えない」、あまり筆まめではない恋人からの連絡はごく淡泊だった。

 自分の中の欠陥を、外部からのあれこれを無理やり形に合わせてはめ込んで、それで満たす。その最も手っ取り早い手立てが、私の場合は食べることだった。ひたすら好きなものを食べて、血糖値がうまい具合に上昇したところで睡魔に身を任せる。飽食の時代にしかできないこの破滅的な行為は、涙をひとしきり流したあとの頽廃した気分と良く合った。でも、この行為で得られる満足感はとてもはかなく、朝には胃の中身と同様に虚無となってしまう。その点で、食べることはとても空しい。またデートができなかったことが余計に悔やまれた。

「そんなの愛じゃなくて執着なんじゃない?」

 そうかもしれない。今の私のこの姿を見せれば彼は予定を切り上げて急いで飛んできてごめんねと謝りながら君のことが一番大事、なんて優しい言葉をかけてくれるかもしれない。けれど私はそんな展開はごめんだ、だって私の欠陥なんて知らないでいてほしいから。

 あなたなんてなんにも知らずに私にでれでれしてればそれでいい、なんて残酷にも願ってしまうのはやはり執着だろうか。

 

 

 片田舎のターミナル駅で二人して途方に暮れてしまった。いや私たち二人だけではない、周りではざわざわとした喧騒が飛び交っていた。ええ、電車が止まってしまいまして、再開の目途も立たないようでして、また連絡しますんで、隣のサラリーマンはいかにも困り果てたような声色で電話を掛けている。点滅する電光掲示板はとげとげしい赤色で異常事態を知らせる。「強風の影響で運転を見合わせております。」モニターには運転見合わせ区間が地図で示されていて、その範囲には今夜私たちが泊まる予定だった宿も入っていた。当然、今日の観光予定もぜんぶパーだ。どうしよう、と彼の顔を伺い見ると、いつになく難しい顔をしてモニターを見ていた。こんな真面目な目もするんだなあと一瞬能天気な感想を思い浮かべた。

 

 

「来月の旅行で陽季くんのこと、もっと知りたい」

 深夜の二時、布団の中でやり切れない思いをスマホ越しにぶつける。でも私は臆病だからあて先は彼本人じゃなくて別の人。どうしようもなくくよくよした言葉を、いつも受け止めて返してくれる人がいる。今夜もそう。

「彼氏さんと旅行なんて羨ましいです! さくらさんなら大丈夫ですよ、楽しんできてください♡」

 優しさも時に空しい、時にこんなどうしようもない夜には。私は全然大丈夫なんかじゃない、だってまだ彼の好きなもの、嫌いなものも全部は知らない。子供のころの思い出も分からない。今何をしていて、誰の事を思っているのかさえも見当がつかない。

 目を開けるとそこには箱根の温泉街があった。私は古びた、いかにも小京都じみた風情のある旅館の縁側に立っていて、春の陽光を浴びて弛緩しまくった街をただぼんやり眺めていた。のどかだね、と彼が言ったのを聞いた。彼はずっとそこにいた気がするし、突然隣に現れたようにも思える。ただそんなことは重要ではなかった。

「もうすぐ二十五歳の誕生日だよね。それで俺、節目の年だからプレゼント色々考えて、このタイミングだからこれしかないなって思ってこれ、用意したんだよね。受け取ってくれる?」

 彼の手のひらの上には綺麗な小箱があった。ちょっと待って。その中身は私の左手の薬指にぴったりと嵌まるに違いなかった。一番望んでいるもののはずなのに、まだ絶対に受け取ってはいけない気がする、そんな簡単に考えていいのか、絶対後戻りできないし間違えちゃいけないのに、ちょっと待って考えさせてよ――。

 はっと目覚めて布団から這い出る。やっぱり深夜に考え事をするとろくな夢を見ないからやめよう。

 

 

 スマホを取り出して、困ったように微笑みながら彼は言った。

「とりあえず俺、チェックインの時間に間に合わないかもって宿の人に連絡してみるね。っ向こうの人も事情は分かってると思うから大丈夫だと思うけど」

「あ、そうだね、ありがとう」

 少し離れたところで電話をする彼を横目で見ながら、私もいろいろと調べる。どうやら強風で線路の近くで倒木が起こったらしく、運転再開に時間がかかっているらしい。日中に箱根に辿り着くのは無理かもしれない。

「宿の人、おっけーだって。事前に連絡してくれれば到着する時間に合わせて食事の用意もしてくれるらしい」

「良かった、早めに電車動くといいね。あのね、今日は箱根じゃなくてこの辺の散策にしたほうがいいと思うんだけど、どうかな?」

 勢いよくうなずいて彼は同意した。「じゃあ、俺行きたいところがあるんだけど…」

 

 

 駅を出て、坂を上っているとだんだんと観光客も少なくなっていった。それにつれて傾斜も急になっていって、気がつけば山道ともとれるような場所を歩いていた。

 道案内はすべて彼と彼のスマホに任せているので、私はひたすら彼についていくだけでよかった。駅にいたときには溢れかえる喧騒と動揺に心がざわざわしていたが、外に出ていつもと変わらない緑色だらけの自然の風景を見ていると自然と晴れやかな気分になって、だんだん見晴らしが良くなってくるまわりの景色を楽しみながら歩いたりしていた。いつもより強い風さえも、顔の周りにまとわりついていた不安を一気に吹き飛ばすようで心地よく、さっきまであんなに強風を恨めしく思っていたのが嘘のようだった。その一方で、だんだんと普段見慣れないような山々や林に向かっていくにつれて、この先どうなるかは彼次第で、私の与り知るところではないのだという不思議にスリリングな気持ちも浮かんできた。私の命はこの人次第、というと大げさだが、なんだかその危うささえも楽しかった。

 木の枝や大きめの石なんかがたくさん落ちている林を少し進むと、開けた丘に出た。その丘では、風が南から何にも邪魔されずに奔放に吹いていて、その風に乗っかるようにして花が降っていた。桜も乙女椿も名前をよく知らない紫やオレンジ色の花も、一斉にその花びらを降らせていた。

 これは夢ではないはずなんだけど、その確証が持てなくなるほど夢の中の景色みたいだった。そんな心地よい閉塞が、そこにはあった。風と花びらに隔絶されて、この世には私たち二人だけだった。とにかく閉塞しているのだけど、必要なものはすべてそろっていたから、満たされていて心地よかった。そんな閉塞だった。

 くしゅん、と音のした方を見ると、彼が目と鼻を真っ赤にしていた。軽く鼻をすすると、恥ずかしそうに言う。

「ごめん、実は花粉症なんだよね。でもどうしても連れて来たくて」

 私は、どうしようもなく、彼はいい人だから大事にしなきゃいけないなと思ってしまった。これが愛ならば、愛とは思ったよりも至って自然なのかもしれない。

てきとー日記

 ミスチルの桜井になりたい。小学三年生のとき、父さんがカラオケで歌っていた歌を聞いてからそう思ってる。桜井になれば、僕が給食の時間にちょっと歌えばクラスのみんなが泣いちゃうのだ。だからミスチルの桜井になりたい。

 母さん、今日って何曜日だっけ。今日は、ええと木曜日やね。ふーん、ありがと。なに、隆樹またランドセル昨日から置きっぱなしなんやろ、前の日の夜にちゃんと次の日の準備しときなさいよって母さん毎日言っとるやん。は? そんなんじゃねーし。もういいから早く着がえてきて、総一郎君来ちゃうよ。

 うるさいうるさい。総一郎なんか今日学校休めばいいのに。木曜だから、国算道徳道徳体か。教科書少なくてよかった。理科の教科書を出して、心のノートを入れておしまいか。はー終わった終わった。総一郎早く来ねーかな。

 ピンポンが鳴って玄関を開けると、雪が結構積もっててちょっとびっくりした。総一郎が長靴をはいていてだせーと思ったから、僕はいつものスニーカーで行くことにした。長靴なんか都会の甘ったれが履くもんだ、と僕はその日の総一郎を見て初めて思った。

 総一郎、あれ見してよ。あれって何、俺んちの金魚? ちげーよ、金魚なんて学校にもおるわ、違うってあのあれ、算数の練習7。あー練習7宿題か。なんや、じゃあ裕也君に見してもらうわ。うん、裕也君ならやってるよ。

 ねえ。なんや、まだ宿題あったん? いや、違う、あのさ、今日も絵美の悪口言うのかな。わからん、あいつが言えばするんじゃん? 僕らが決めることじゃないやん。うん、まあ、そっか。

 猛スピードで横を走り抜けていった車が僕らに水が混じってびちょびちょの雪をかけてくる。すねあたりまで冷たくなった。靴下もだいぶ濡れてしまったかもしれない。僕も車で通いたい、と心の底から思う。裕也君は過保護だから多分親に送ってもらってるんだろうな。あーあ、沖縄に住みてえ、それかせめて東京だな、うん。

 

 

 教室に入るといつも通りの感じで胃がむかむかした。絵美の今日のスカート、みっじかくない? しかも水色とかなんなん? 子供くさ、あの子足太いんやからさ、マジ何のために見せとるん、って感じ。由衣の高い声が女子の集団の中でも一段と響いて、教室を呑みこんでいく。絵美には聞こえてるんだろうな、と思う。聞こえてても聞こえてなくてもどっちでもいいのかな。絵美は自分がからかわれてることなんかとっくに知ってるだろうし。そういうキャラだからしょうがない、って半分諦めてるのかな。たぶんあいつらが絵美の目の前で同じことを言ったとしても、ごめん、とか笑いながら言うんだろうな。別に謝ることもねえし、しかもへらへらしながら言ってんじゃねえよ、考えるだけでむかついてくるから僕は何も聞かないことにする。僕はなんも関係ないんだけど、僕は僕であることがだんだん嫌になってきて、またおなかがきりきりと痛くなってくるんだ。

 

 

 国語と算数と、まあなんとなくこなして道徳の時間。この時間がいちばんなぞ。マジ、こんなことやって中学入って役に立つのって感じ。班で話し合ったりするのも嫌だ。ほかの人が何を考えてるのかちゃんと聞きましょうって、先生はいつも言うけど、みんないい子ちゃんな意見しか言わないに決まってる。けれどそれはお互い様だとは思う。僕も将来の夢はミスチルの桜井じゃなくて、公務員って答えた。由衣はすぐにぼそっと、つまんなって言ってた。なんでクラスみんなの前でそんなこと言えるのか、僕には全然わからなかった。

 最近は由衣だけじゃなくて、もっとみんなが何考えてるのかわかんなくなった。多分絵美をいじめるのが始まってからだと思う。道徳の時間なんかで習わなくても、いじめはよくないってみんな知ってるはずなのに、でもみんな絵美だけはウザいから、そういうやつだから悪口言っていいと思ってる。もしかしたら僕だけが道徳を身に着けた、ちゃんとした人間なのかもしれない。先生は心のノートの中の、いじめに関するページを音読していた。クラスがちょっと荒れてるから、そういう話を選んだんだろう。でもそんなこと言ったって、聞かないに決まってる、だってみんな怪物なんだから。もうこんな田舎は嫌だ、こんなやつらと一緒の中学上がって、高校も大体同じで、そんな決まりきったコースなんか辿りたくない。僕は、そうだな。僕を見に来る人で武道館をいっぱいにしたい。

 

 

 早く今日一日を終わらせたい。だから掃除も急いでやる。適当に半面を掃いていち早く机を移動させに行く。僕が動かし始めるとほかの人もつられて運び出すからなんだかおもしろい。あそこの一列だけ全然運んでないじゃん、なんかきもちわる。僕が運んでやろうか。机に手をかけると、黒板を消していた由衣が突然、そこ絵美の机じゃん、絵美菌うつるよ、きったなとか言ってきた。反射的に手を引っ込ませると、なんだか本当に机がぺたぺたしてるように見えてきて、小指に乳酸菌みたいな細くて白いカスみたいなものが指についてて、そういえばあいつ汗かきだから引き出しとかなんかやばくね。そう思うと机が運べなくなってしまった、いやそもそも触れなくなってしまった。僕はぞうきんをもったまま校舎を一周した。生徒全員がはいつくばって掃除しているのがなんか面白かった。そのまま階段を降りて、家まで帰ろうかと思ったけど靴がまだ濡れている気がしたから教室に戻った。絵美の机を普通の顔して運んでいる総一郎がいて、意味が分からないと思った。

 

 

 おい、帰りの会するから席に着け。いいから早くしろ。ええと、日直の人、今日は何か変わったことはありましたか。特にないですか、ありがとう。んーと、みんなちょっとだけ先生に時間くれるか。今日は、ちょっと、齊藤絵美さんからお話があります。なんだよ、早く帰らせろよ、僕は帰って寝て、それから吐きたい気持ちなんだ。声にならない。ただ小さく、ううということしかできなくて、この気持ち悪さがなおるまではこんな声しか出せないんじゃないか、と怖くなる。じゃあ、絵美。はい。

「私のこといじめるの、やめてください」

 ずるい、と思う。今までなんも言わなかったくせに。そうやって、いきなり、みんなに向かって。うううずるい、

 ありがとう、そういうことだから。先生、こういうことがあってすごく残念やけど、悪いことしたと思ってる人は今謝れば許してくれるそうだから。じゃあ、ちょっとみんな立って、そういうことしてた人はごめんなさいしましょうか。いきますよ、せーの。

 ごめんなさい。とてもたくさんのごめんなさい。僕はびっくりして思わず頭を下げてしまって、そのあとで本当に心の底から、絵美菌なんて信じちゃってごめんなさい、と思った。僕は、そう、バカだと思う。頭が下がっているから血が逆流して、心臓がバクバクしているのが良く聞こえてうっとうしい。

 気になって横目で教室を見渡してみると、ほとんど全員が頭を下げていた。みんな、バカだな。謝るくらいなら最初からやらなきゃいいのに、本当にどうしようもないやつらだ。由衣なんて絶対にいやいや頭を下げているに決まってるんだ。だって、平気であんなこと言えるやつなんて罪悪感とか、そういうの最初からないんだと思うし。同じようなやつらが今謝ってる中でどのくらいいるんだろう、あいつとあいつ、三人くらい、いやもっと? だめだ怖い怖い、謝ってるのはみんなうそつきだ。あれ、総一郎が立ったままだ、なんだよあいつくそ、ずるい、机運んだくらいでそんな。少しも、一点も悪いところがないっていうのか、机運んだだけで。もうなんなんだ、何考えてるのかわかんないよ。何も考えていないのか? どうしたらいいんだ。教えてください先生。そうか、怪物。ドラゴンみたいな怪物が泣いている。満足できなくて、それでもドラゴンだから、自分だけじゃどうしようもなくて泣いている、かわいそうに。腹を空かしてるんだったら、僕を呑み込んでくれていい、その代わりに、お腹のなかから考えてること、少しのぞかせてもらいたい。

 そう思ってから、僕はミスチルの桜井を目指すのをやめて、アベンジャーズのハルクになりたいと考えるようになった。ドラゴンをばったばったと殴り飛ばしたいからね。

おわり