書いた小説をのせています。

ありふれた春の日

この間、私に恋人ができた。ゆゆしき事件である。よくわからないうちに好かれていて、あれよあれよという間に付き合う段となってそのまま三か月経った。はじめのうちは始終緊張していて話すことひとつひとつに気を遣い、空回りもたくさんした覚えがあるけど、そこそこの時間一緒にいて私の方ではそことなく良い距離感というものをつかめた気がする。

 でも、たまに、わっと不安が私を誘って取り囲んでしまう。この人を私につなぎとめているものは何なのか。自分の中を底まで照らして探してみても、全然見つからない、だから不安はいつまでもなくなってくれなくて泣き出してしまいそうになってしまう。

 《真実の愛 とは》。真実の定義もいろいろあるけれど、私が求めてるのは確乎で永久不滅のもの、それに限る。

「それはさ、身も蓋もない話でアレだけど、やっぱり掛けてもらった時間とお金じゃない? 言葉とか態度ってその都度変わるものだし、なんかどーしても信用できない」

 昼間のファミレスで友人と辿り着いた結論は、そのとき食べた五百円のパスタと同じだった。最適解よりも妥協策のほうがそこらにたくさん転がってるから逆に安心して擦り寄ることができる。私たちは妥協のなかでゆったりと、目を瞑りながら暮らしている。――もしかして彼も?

 

 

「すみません、わたくし芸能事務所の者なのですが」

今でもはっきり覚えている。小学六年生のころ、原宿の竹下通り、可愛い可愛い私の妹がスカウトマンにそう声を掛けられた。少女漫画のような展開に興奮した気持ちはあったものの、幼かった私たちはどう返事をしていいか分からず、ひたすらまごつくしかなかった。その様子を感じ取ったスカウトマンが、畳みかけるようにさらに言った。

「良かったらお姉ちゃんも一緒にどうぞ」

 その時の気持ちは言いようもない。私は妹のオマケ、そんな今更な現実を知って怒ったり屈辱を抱いたりみたいな激しい感情は起こらなかったけれど、私の中の何かが確実に崩れ落ちて灰になった。崩れて原型をとどめなくなったそれは自意識というのかもしれない、とにかくそれ以来私の自己評価は不安定になってこの年まで元に戻ることはなくなってしまった。

 

 

 深夜のコンビニには客は私一人で、暇を持て余しまくったような様子の店員に一挙一動を見られている気配を感じて落ち着かない。しかしそんなことなど構うものか。何もかも構っていられない、えいえいと商品をカゴに放り込んでその勢いのままレジに出す。

 2リットルのコーラとカップ麺とポテチとパーティーサイズのチョコレート二袋、しめて千三百九十二円の重みを家まで運ぶと、出る直前までひとしきり泣いていた記憶が蘇ってまた涙がにじむ。一人暮らしの特権を利用してまた私はさめざめと泣いた。「ごめん、今週末も会えない」、あまり筆まめではない恋人からの連絡はごく淡泊だった。

 自分の中の欠陥を、外部からのあれこれを無理やり形に合わせてはめ込んで、それで満たす。その最も手っ取り早い手立てが、私の場合は食べることだった。ひたすら好きなものを食べて、血糖値がうまい具合に上昇したところで睡魔に身を任せる。飽食の時代にしかできないこの破滅的な行為は、涙をひとしきり流したあとの頽廃した気分と良く合った。でも、この行為で得られる満足感はとてもはかなく、朝には胃の中身と同様に虚無となってしまう。その点で、食べることはとても空しい。またデートができなかったことが余計に悔やまれた。

「そんなの愛じゃなくて執着なんじゃない?」

 そうかもしれない。今の私のこの姿を見せれば彼は予定を切り上げて急いで飛んできてごめんねと謝りながら君のことが一番大事、なんて優しい言葉をかけてくれるかもしれない。けれど私はそんな展開はごめんだ、だって私の欠陥なんて知らないでいてほしいから。

 あなたなんてなんにも知らずに私にでれでれしてればそれでいい、なんて残酷にも願ってしまうのはやはり執着だろうか。

 

 

 片田舎のターミナル駅で二人して途方に暮れてしまった。いや私たち二人だけではない、周りではざわざわとした喧騒が飛び交っていた。ええ、電車が止まってしまいまして、再開の目途も立たないようでして、また連絡しますんで、隣のサラリーマンはいかにも困り果てたような声色で電話を掛けている。点滅する電光掲示板はとげとげしい赤色で異常事態を知らせる。「強風の影響で運転を見合わせております。」モニターには運転見合わせ区間が地図で示されていて、その範囲には今夜私たちが泊まる予定だった宿も入っていた。当然、今日の観光予定もぜんぶパーだ。どうしよう、と彼の顔を伺い見ると、いつになく難しい顔をしてモニターを見ていた。こんな真面目な目もするんだなあと一瞬能天気な感想を思い浮かべた。

 

 

「来月の旅行で陽季くんのこと、もっと知りたい」

 深夜の二時、布団の中でやり切れない思いをスマホ越しにぶつける。でも私は臆病だからあて先は彼本人じゃなくて別の人。どうしようもなくくよくよした言葉を、いつも受け止めて返してくれる人がいる。今夜もそう。

「彼氏さんと旅行なんて羨ましいです! さくらさんなら大丈夫ですよ、楽しんできてください♡」

 優しさも時に空しい、時にこんなどうしようもない夜には。私は全然大丈夫なんかじゃない、だってまだ彼の好きなもの、嫌いなものも全部は知らない。子供のころの思い出も分からない。今何をしていて、誰の事を思っているのかさえも見当がつかない。

 目を開けるとそこには箱根の温泉街があった。私は古びた、いかにも小京都じみた風情のある旅館の縁側に立っていて、春の陽光を浴びて弛緩しまくった街をただぼんやり眺めていた。のどかだね、と彼が言ったのを聞いた。彼はずっとそこにいた気がするし、突然隣に現れたようにも思える。ただそんなことは重要ではなかった。

「もうすぐ二十五歳の誕生日だよね。それで俺、節目の年だからプレゼント色々考えて、このタイミングだからこれしかないなって思ってこれ、用意したんだよね。受け取ってくれる?」

 彼の手のひらの上には綺麗な小箱があった。ちょっと待って。その中身は私の左手の薬指にぴったりと嵌まるに違いなかった。一番望んでいるもののはずなのに、まだ絶対に受け取ってはいけない気がする、そんな簡単に考えていいのか、絶対後戻りできないし間違えちゃいけないのに、ちょっと待って考えさせてよ――。

 はっと目覚めて布団から這い出る。やっぱり深夜に考え事をするとろくな夢を見ないからやめよう。

 

 

 スマホを取り出して、困ったように微笑みながら彼は言った。

「とりあえず俺、チェックインの時間に間に合わないかもって宿の人に連絡してみるね。っ向こうの人も事情は分かってると思うから大丈夫だと思うけど」

「あ、そうだね、ありがとう」

 少し離れたところで電話をする彼を横目で見ながら、私もいろいろと調べる。どうやら強風で線路の近くで倒木が起こったらしく、運転再開に時間がかかっているらしい。日中に箱根に辿り着くのは無理かもしれない。

「宿の人、おっけーだって。事前に連絡してくれれば到着する時間に合わせて食事の用意もしてくれるらしい」

「良かった、早めに電車動くといいね。あのね、今日は箱根じゃなくてこの辺の散策にしたほうがいいと思うんだけど、どうかな?」

 勢いよくうなずいて彼は同意した。「じゃあ、俺行きたいところがあるんだけど…」

 

 

 駅を出て、坂を上っているとだんだんと観光客も少なくなっていった。それにつれて傾斜も急になっていって、気がつけば山道ともとれるような場所を歩いていた。

 道案内はすべて彼と彼のスマホに任せているので、私はひたすら彼についていくだけでよかった。駅にいたときには溢れかえる喧騒と動揺に心がざわざわしていたが、外に出ていつもと変わらない緑色だらけの自然の風景を見ていると自然と晴れやかな気分になって、だんだん見晴らしが良くなってくるまわりの景色を楽しみながら歩いたりしていた。いつもより強い風さえも、顔の周りにまとわりついていた不安を一気に吹き飛ばすようで心地よく、さっきまであんなに強風を恨めしく思っていたのが嘘のようだった。その一方で、だんだんと普段見慣れないような山々や林に向かっていくにつれて、この先どうなるかは彼次第で、私の与り知るところではないのだという不思議にスリリングな気持ちも浮かんできた。私の命はこの人次第、というと大げさだが、なんだかその危うささえも楽しかった。

 木の枝や大きめの石なんかがたくさん落ちている林を少し進むと、開けた丘に出た。その丘では、風が南から何にも邪魔されずに奔放に吹いていて、その風に乗っかるようにして花が降っていた。桜も乙女椿も名前をよく知らない紫やオレンジ色の花も、一斉にその花びらを降らせていた。

 これは夢ではないはずなんだけど、その確証が持てなくなるほど夢の中の景色みたいだった。そんな心地よい閉塞が、そこにはあった。風と花びらに隔絶されて、この世には私たち二人だけだった。とにかく閉塞しているのだけど、必要なものはすべてそろっていたから、満たされていて心地よかった。そんな閉塞だった。

 くしゅん、と音のした方を見ると、彼が目と鼻を真っ赤にしていた。軽く鼻をすすると、恥ずかしそうに言う。

「ごめん、実は花粉症なんだよね。でもどうしても連れて来たくて」

 私は、どうしようもなく、彼はいい人だから大事にしなきゃいけないなと思ってしまった。これが愛ならば、愛とは思ったよりも至って自然なのかもしれない。