摘む(部分)

 教室では銃弾の代わりに視線が飛び交っていた。忍び笑い、咳払い、自然なように見えるある生徒の発言以下エトセトラは、その教室内部の者と外部の者とで読み取ることのできる意味に大きな懸隔がある。教師が持参したノートがそのまま写されていく黒板の上に貼られている「H中学校二年二組 明るくいじめのないクラス」のスローガンは、注意欠陥を持つ生徒の学習の妨げになるため撤去すべきである。

 学校の校舎を出て南を向くと、白くて大きく、そのうえ理想的に左右対称な山が聳え立っている。だがそれが果たしてこの学校の良いところなのだろうか。校歌で山の名を称えることは、素晴らしいことなのか。自然はただそこにあるだけで、僕らはシステムによってここに閉じ込められるに過ぎない。

 なぜ二十五歳にもなった僕がわざわざ中学校に足を運んでいるのかというと、僕がいま無職だからだ。ついこの間までは夕方にのそりと起き出し、歯をちゃらちゃらと磨き、遊びに行くようにふらりとバーのカウンターに立ち、そこはかとなく面白い話をしながら適当に酒をかき混ぜるだけでお金がもらえるまさに夢見ていた暮らしをしていたのに、うっかり人生を転落してしまったのだ。それはそれは痛々しい事故だった。

 事故のことは運が悪かったとしか言いようがないのだが、無職の状態は悪くない。福岡から荻窪のアパートまで電波に乗って飛んでくる母の小言を除けば、夕方にのそりと起き出し、飯をがぶがぶと食べ、遊びに行くようにふらりとコンビニに寄り、そこはかとなく面白いスマホゲームに課金するためにお金を払うまさに夢見ていた暮らしができるのだ。生活範囲が新宿~荻窪からせいぜい高円寺~荻窪に縮小しただけの話だ。

 そういうわけで、僕は小説を書こうと思った。それに、小説を書いて出版すれば、ロト6よりも高い確率でお金が手に入るらしい。簡単な話である、文学フリマ東京の出店費五五〇〇円よりも多く本が売れれば僕の儲け、それ以下であれば赤字である。全角一文字を十分の一円として、三〇〇〇文字の短編小説を書き、三〇〇円で売る。五五〇〇割る三〇〇、イコール一八あまり三であるから、十九冊売ればその瞬間から儲かることになる。僕は高校の時にクラスで冷凍の餃子を解凍して焼き直しただけのものを四〇〇人に売ったことがあるから、余裕の計算である。万事はうまい、うまくいくはずだ。

 

 

続きは『駒場文学』91号に掲載します。