泉鏡花「艶書」と近代

資料作成にあたり、一部旧字体、仮名遣いを改め、ルビを省略した。

また、「艶書」からの引用は岩波書店『鏡花全集 巻十五』から行い、ページ数を括弧内に示す。

 

 

艶書

艶書

 

 

泉鏡花「艶書」:大正二年四月、『現代』第四巻第四号に発表。大正二年十月、春陽堂刊の作品集『乗合船』に収録。大正七年七月、春陽堂刊の作品集『愛艸集』に収録。春陽堂版の『鏡花全集巻九』に収録。

(以上岩波書店『鏡花全集 別巻』p.826より引用)

 

 互いに秘密を持った男女が、狂人という特殊な場によって出会い、その秘密が暴かれる。その狂人の、坂の上の日の当たる場所を選び、ぽつねんと「土蜘蛛」のように控えている様と、薄暗い病院の裏門という明るさの中に潜む暗部といった構造が印象的であると感じた。そのほかにおいても、「艶書」は対比が作り込まれた短編である――その一部は秘密の手がかりとなっている。その対比構造を解き明かすことによって、「艶書」の秘密について論じる。

 

 また、大きな対比構造として、近代/前近代というものもある。病院・市電が登場しながら、艶書、青山墓地と花、江戸的な怪異、など前近代的なものが垣間見える。先行研究でも、一柳がこのようにまとめている。

 

歴史的な地層が織りなす「場」のありようが丹念に書き込まれ、その「場」が攪乱されることで、怪異は立ち現れる。その意味では、近代が生み出した新たな表象群が、怪異発生の触媒として機能しているのだ。(p.5)

 

 また、近代都市の暗部を描いた「貧民倶楽部」の論において、類似の論旨を東郷が述べている。

 

…つまり、一見華やかな近代日本の制度的空間の中心には、それと背中あわせに、その矛盾と汚穢のふきだまりのような「山の手第一等の飢寒窟」四谷鮫ヶ橋が存在しているということになる。鏡花は両者の対照的かつ相補的な組み合わせによって、近代都市の光と影、日本的近代の表層と裏面をいわば構造的にとらえようとしている、…(p.25)

 

一柳は、近代を象徴するような広尾の赤十字病院と歴史的物語を持つ笄川の交錯や、市電とその交通事故の問題を通じて、近代の怪異の表現について、「近代と前近代がせめぎ合い、その隙間から噴出する「気」を描いた」(p.14)ものと「艶書」の表現システムを論じている。一柳の問題意識に沿う形で、近代的なものにより近づきながらも、江戸的なものがふとした瞬間に顔をのぞかせる鏡花の怪異物語を論じてみる。

 

◆明暗の対比

1.はっきりとした対比

1-1.「狂人」の佇む様子

「往には、何にも、そんな奴は居なかつたんです。尤も大勢人通りがありましたから気が付かなかったかも知れません。還は…其奴の姿がぽつねんとして一ツ。其が、此の上の、ずんどに、だだつ広い昔の大手前と云った通へ、赫っと日が当たって、こうやって蔭もない」[1](101)というように、普段は人通りの多いはずの広い通りに、ぽつねんと一人佇む男の姿が印象的に描かれる。また、服装についても、五月晴れの天候とはあっていない。「暑苦しい黒い形で踞んで居る」(102)、「暑くるしいね、絣の、大島か何かでせう、襟垢の着いた袷に、…此の温気に、めりやすの襯衣です」(108)のように、五月の晴れた日差しと対照的な男の黒く、暑苦しい服装によって、彼の狂気、不気味さが際立たせられる。

また、初めは、「可厭な、土蜘蛛見たやうな」(109)と形容されるような、人を待ち構えて砂利を掴んで投げつける以外には動きはなく、その場から離れることのできない無気力な様子であった。しかし、小説の最終部では、「女」の狂気が露呈し、物語が動き出すのと呼応するようにして、突如として狂人自身も動きを見せる。はじめは「土蜘蛛の如く、横這ひに、踞んだなりで、坂をずる〳〵と摺つては、摺つては来て」(124)といった徐々の、反復的な動きから、「疾風の如く駈けて来た件の狂人が、脚から宙で飛乗らうとした」(124)という激しい突発的な動きを見せ、そのまま突如として市電にはねられて死を迎える。

 

1-2.赤十字病院

1885年(明治18年)に設立した博愛社病院を受け継ぐ形で1887年に日本赤十字社病院と改称された。そのような大病院であり、近代化の流れで建設された清潔なイメージが想起される一方で、小説内に描かれる「赤十字病院」には暗い影が付きまとう。

「病院の裏門の、あの日中も陰気な、枯野へ日が沈むと云つた、寂しい赤い土塀へ」(102)

「よくある習で――医師の手抜かり、看護婦の不深切。何でも病院の越度と思つて、其が口惜しさに、…」(102)

男の陰気さも相まって不気味な場所へ。また、病院内の医者や看護婦などへ不満を抱くことがよくある話であったことを示唆する。

 

(1-3.女学校のお婆さん)

・「いろの袴と、リボン」(104)の中に「黒い服を裾長に練る」(104)…色とりどりの和装の生徒と修道服

・「金属製の十字架」(104)と「救助舟で済度に顕れた」(104)…キリスト教と仏教

・「船で行くやうに」、「洋傘の五色の波」(105)→「遁げると成ると疾い事!」「巻狩へ出る猪」(105)…どっしりした登場とあたふたとした退却

 

2.微妙な対比

2-1.「女」の光と影

「女」は、美しく妖艶な姿で描かれているが、小説の前半の姿に微妙な差異がある。登場時の姿は、「薄色縮緬の紋着の単羽織」(98)を着ており、「同じ色の洋傘を、日中、此の日の当るのに、翳しはしないで」(99)歩いているため、女には五月の日光がさえぎられることなく当たっている。「女」自身も「真白な腕」(110)と形容されるように、一貫して白、光をまとう人物として描かれ、坂道を苦にする様子や狂人を怖がる様子から徹底して無垢でか弱い人物として印象付けられる。

 しかし、「女」が病院に行かずに帰ることを決めたあたりから、彼女の白に「影」が映し出されていく。その端緒が、女が籠から花を取出して捨てる部分である。「菖蒲は取つて、足許に投げた、薄紫が足袋を染める」(113)ように、「女」はその白を少しずつ崩して、隠された一面を見せ始める。徐々にその影は濃くなり―「其の唇は、此の時、鉄漿を含んだか、と影さして、言はれぬ媚めかしいものであつた」(113)、日傘をさして影を作る―「日を隔てたカアテンの裡なる白昼に」(114)。

 「女」の光は、彼女自身の秘めた狂気を少しずつ垣間見せるように影を帯びる。重要なのは、「女」が自らの行動をきっかけにして、能動的に影を作り出しているという点である。花を落とす、日傘をさすなどの行為は、周囲から強要されるものではなく、彼女が進んで行っていた。これは、後述する男の対比と比較する。「女」の光は影をさす――最後には彼女は、自ら自身の呪術を進んで打ち明ける。

 

2-2.「男」の仮装と真実

「五月半ばの太陽の下」(100)であるのに、「男」は高足駄を履いているという妙な服装は、小説の伏線として初めに提示される――「路はかう乾いたのに、其の爪皮の泥でも知れる、雨あがりの朝早くの泥濘の中を出て来たらしい」(99)。五月晴れの中に高足駄という細かな対比は、あとあとになって、「男」の秘密を裏付ける証拠として浮かび上がることとなる。ほかにも、彼は「鳥打を被つ」て、「杖を支いた」(99)西洋風のいでたちをしているが、これものちに「蒔絵師」(119)であるとわかる彼の変装なのである。

「男」の仮の姿は、ちょうど「雲は所々墨が染んだ、日の照りは又赫と強い。が、何となく湿を帯びて重かつた」(113)と天候が怪しくなるところで徐々に暴かれていく。「女」にいちばんの弱みである艶書を拾われ、それをきっかけに彼の身元は明るみに出される。「にせて殿方のてのやうに書いてはありますけれど、其は一目見れば分」(116)かるというように、まずは手紙の送り主の素性を暴かれる。次に、「男」自身の匿名も奪われる。上書から苗字が「女」に知られ、さらに地の文では読者に向けて、彼を一人の個人に特定する情報が暴露される――「旗野は、名を礼吉と云ふ、美術学校出身の蒔絵師である」(119)。終いには「女」に手紙の内容を見たことを打ち明けられ、手紙は艶書であったことが暴かれる。

「男」の秘密の露呈の仕方には「女」のものと異なる点が二つある。第一には、先述したような、露呈の能動性である。「女」が自ら隠れた姿を少しずつ晒していったのに対し、「男」は「女」から受動的に秘密を暴かれてしまう。また、彼の変装は「女」のものと比べて完璧ではない一時しのぎなもので、特に高足駄の泥から「男」が朝早くからある目的のために歩き回ったことがわかってしまう。第二には、秘密がはじめから秘密にされていなかった、という点である。「男」が小説の後半で手紙を落としてしまったこと、またその中身が人に見られてはまずいものであることを話すが、ここで初めから「艶書」というタイトルを与えられている読者にとっては、内容を読まずとも、手紙の差出人がどのような人物で、内容がどうであるかといった内容が読めてしまう。彼の秘密は、初めから秘密ではなかったのだ。

 

◆近代の暴力性―反転の力学

1.赤十字病院

 赤十字病院についての記述は、先述した一柳の論に詳しい。

 

…さらに二四年、飯田町から現在地の渋谷区広尾四丁目へ移転した。飯田町の土地は陸軍用地で、陸軍省の援助で病院は創設されている。また移転先は豊島御料地の一部であり、宮内庁の援助を得た。…このように、当病院は明治の国家体制、特に軍部と深く関わっていた。(p.6)

 

 近代の国家体制と関連があり、また、何メートルにもわたる煉瓦の塀という外観からも読み取れるように、赤十字病院は近代、それも国家的に統括された近代を提喩する。

 一方で、明治・大正期の東京において、一番の繁華街は日本橋を中心とし、東京、丸の内、銀座といった区域であり、渋谷、青山といった区域は郊外という位置づけであった。

http://www.hakkou-s.co.jp/chizutokyo/tokyo_8.html

 赤十字病院の周囲は古くからの寺社が多くみられる地域であった[2]。それとは対照的に、広尾病院や青山脳病院など近代科学の最先端である機関が進出しつつあった。これには、渋谷・広尾という土地の郊外性が病院にとっての利点として働くからだ。古川の「都市的施設としての精神病院の成立に関する研究」をみると、病院の立地として望ましい条件が以下のように提示される。

 

①精神病院の医療的機能は、治療設備の完備、医師による管理、都市的環境からの隔離であった。呉の精神病院モデルは2種類の病院が想定され、分類の基準には都と村落といった立地が重要な意味をもっていた。

②精神病院は、様々な社会的機能からも設置が要請された。特に公共的な施設として都市への立地が要請された。

③精神病院法審議過程での概要計画では社会的機能を果たすため、精神病院は人口規模により種別され、都市内で、環境が良好で利便的な立地が目指された。

 

 このような事情から、郊外である渋谷に大病院が建設・移転され、前近代的な街並みと近代的で巨大な建造物が混在する場が生まれたのだ。

 以上が病院の外の環境も含めた様子であったが、鏡花は同じ赤十字病院について、病院の内部について描いてもいる。「外科医」のなかで、「赤十字病院」は、沈鬱な趣をもって描写されている。

 

…渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音を響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。

 

 広々とした病院の廊下で、人々が行きかう様を描いているが、その顔色は「穏やか」ではなく、「異様の跫音」が響く。大病院の内部という、清潔で整っているはずの場所が「陰惨」な場所として表象されているのだ。この廊下の場面は、のちに語り手が入ることになる病院の心臓部ともいえる「外科室」で行われる手術のおどろおどろしさを物語る序章となっているのだ。「外科室」においては、手術を受ける女性が、自身の秘密を麻酔で眠っている間に無意識に明らかになってしまうことを恐れて、麻酔なしで胸部の手術を行ってほしいと依頼する。科学的なもの、無意識な状態にされる暴力性への抵抗がここでは読み取れる。

 「外科室」と対比してみると、「艶書」の「女」の秘密の取り扱い方は大きく異なる。彼女は、自ら進んで秘密を打ち明けているのだ。ここには、「外科室」の女性が見せたような秘密が明らかになってしまうことへの恐怖はほとんど見られない。

 考えられるのは、「女」の秘密が言い逃れできるという点である。彼女の秘密は呪術的なものであるがゆえに、証拠が残らず、近代的法制度では罪に問うことができない。これは、裏返せば、彼女の無力性も物語る。彼女はこのような遠回りな方法を採ることでしか「旦那」の死を成就させることができないのだ。管理が行き届いていて、科学的な治療法が確立しつつある病院の中においては、夫を殺すことなどできるはずがない。加えて、高い煉瓦の壁は「女」を閉め出す高い障害である。それゆえ、彼女は死の匂いのする花を毎日届けることによって、「旦那」の死を願うのだ。この「女」の秘密は、近代的な機構へのささやかな反逆である。

河内は、「外科室」の描写において、「親族や「予」が外科手術に立合うことの意味とリアリティー、そして麻酔による秘密の暴露や看護婦に関する設定にはリアリティーがあることを確認」(p.129)している。病院を舞台とした短編を複数描いていることから、鏡花の病院への意識は特別にあったようだ。加えて、どちらも暗いイメージを共通して持っていることは特異である。そうしてどちらも、病院と秘密をめぐって、陰惨な物語が紡がれる。

 

2.市電

 小説において秘密を抱えた二人の出会いのきっかけとなったのが、狂人であった。しかし彼は、最終部において、突如としてその命を絶たれる。そこには、電車に仮託された近代の産物の持った暴力性が読み取ることができる。[3]

 1908年(明治41年)に連載された漱石の『三四郎』においても、轢死の場面がある。主人公の三四郎家の近所の線路で女が自殺する。その直前にその際に女が発した呟きを三四郎は聞いていた。

 

 三四郎の眼の前には、ありありと先刻の女の顔が見える。その顔と「ああああ……」といった力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべきはずの無残な運命とを、継合わして考えてみると、人生という丈夫そうな命の根が、知らぬ間に、ゆるんで、何時でも暗闇へ浮き出して行きそうに思われる。三四郎は慾も得も入らないほど怖かった。ただ轟という一瞬間である。その前までは慥に生きていたに違ない。(p.58)

 

 二者に共通するのは、さっきまで生きていた人間が、突如として巨大な力によって生命を奪われてしまう残忍さである。「艶書」では、最終部の展開の怒涛さ、または「喘ぐ口が海鼠を銜んだ」ような狂人の顔の描写から、市電による一瞬の力の強大さを印象付けられる。

 対比構造を生成する「場」を生み出した狂人の一瞬の死に終わる幕切れは、どこか虚無感を持った読後感を与える。狂人の死についての語りの虚空から、その死へ誘った近代の構築物の持つ暴力性が際立たされているようにも見える。

 

◆参考資料

・一柳 廣孝「青葉がくれに花を摘む : 泉鏡花「艶書」と怪異」(国語と国文学 94(2), 3-15, 2017-02明治書院

・東郷 克美「泉鏡花・差別と禁忌の空間(<特集>日本文学における時空意識)」(日本文学 33(1), 22-37, 1984 日本文学協会)

日本赤十字社医療センター:沿革、歴史(最終閲覧日:2020年4月30日)

http://www.med.jrc.or.jp/hospital/tabid/105/Default.aspx

東京市全図(明治43年(1910年) 発行 大正4年(1915年) 訂正)(最終閲覧日:2020年4月30日)

http://www.hakkou-s.co.jp/chizutokyo/tokyo_8.html

・古山 周太郎「都市的施設としての精神病院の成立に関する研究 : 明治・大正期の精神病院論にみる配置・立地論に着目して」(都市計画. 別冊, 都市計画論文集38(3), 841-846, 2003-10-25 公益社団法人 日本都市計画学会)

泉鏡花「外科室」(最終閲覧日:2020年4月30日)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/360_19397.html(底本:「高野聖」角川 文庫、角川書店 1971(昭和46)年4月20日改版初版発行 1979(昭和54)年11月30日改版第14刷発行)

・河内 重雄「泉鏡花「外科室」の一面--医学小説としてのリアリティーについて」(語文研究 (108・109), 122-134, 2010-06九州大学国語国文学会)

夏目漱石三四郎』(岩波文庫岩波書店 2016年7月5日第103刷発行)

国立国会図書館デジタルコレクション 『乗合船』資料

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/91065

 

 
   


 

 

       
     
 
   

 

[1] 暗い夜に幽霊の白い服だけがぼーっと浮き上がる……といった描写とは対照的。

[2] 右図東の方に青山墓地がある。

[3] 以下で論じた以外にも、一柳は人身事故の問題、『三四郎』は騒音の問題を述べている。また、中村 吉三郎「明治三十九年の東京市電車料金値上問題」(早稲田法学 27(1-2), 130-148, 1952-01-30)のようなものもあった。