卒(仮)④―「人間失格」と「美男子と煙草」


 こんにちは~。今日は「人間失格」に続きの部分、「美男子と煙草」との類似点について書いていこうと思います。

 

 「人間失格」、うちにある新潮文庫のカバーかっこいいんですよね。

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 こんな毒色してるのになぜか親しみのある配色だな~と思ってたらエヴァ初号機ですねw

 

1.過度の犠牲者意識と語り

 前回若干言ったところですが、双方ともに手記の体裁をとっています。両方の手記に通底するのが書き手の被害体験なのですが、一つの体験について語るのではなくて、質の異なる複数の体験を繋ぎ合わせるようにして語られているのではないか、ということです。

 これは「美男子と煙草」の方が顕著であると思います。「美男子と煙草」のメイン部分は居酒屋で年寄りの文学者に「全く見当ちがいの悪口」を言われる前半と、上野に「浮浪者」を見に行く後半の二つに分ける事が出来ますが、出来事自体の共通性はありません。この二つの出来事を繋ぎ合わせて語るのは語り手「私」が自分の「たたかい」について語り、それに負けたことを印象付けたい意図があるからだと思われます。つまり、前半のエピソードを付すことによって、後半部分での「私」の弱者性、無力性、あるいは孤独であることの正しさがより浮かび上がりやすくなっているのです。それは語りの操作と言えるでしょう。

 「人間失格」にも、そのような語りの操作は見出せそうです。第一の手記で「人間の生活」の分からなさを語る葉蔵は、第二の手記以降で経験を経るなかで、「世間とは個人」ではないかという思いに気づくなど、他人の生活について見えてくるものが出てきます。しかし、女性とはうまく付き合っていくことができず、複数の女性と親しくなるも挫折していく様が遍歴的に描かれていきます。ヨシ子の事件以降は薬物中毒に陥り、「人間、失格」となりますが、この人間失格に至ったのも「人間の生活」が分からなかったからではなく、というかそんな人間全般を対象にする普遍的な次元の話ではなく、女性という非常に近しい間柄を築こうとすると失敗に陥ってしまう話であると思うんですよね。だから、始めの「幸福の観念」を持ち出したりだとか、「最後の求愛」、「サーヴィス」と言った一般的観念論はこのあとの悲劇性、また葉蔵の特異性あるいは特異だからこその孤独、弱者性を印象付けるための語りの操作ではないのでしょうか。

 余談というか悪口ですが、自分はこの語りの操作が面白いと言っているのであって、なくてもいいとは全く思っていないので、「人間失格」と題を打った映画の宣伝に「禁断の恋」とまとめるような文句が使われていて本当に絶望しました。亡くなっている人間あるいは実在する(していた)人間を題材とするときはもう少し慎重になってほしいもんですよ。

 

2.犠牲者に同一化する語り手

 前項で見た、自らの弱者性を進んで顕にする語り手の姿勢は、語る内容を選出する際の操作の他に、小説内の他の犠牲者と目すことができる人物に同一化しようとする語り手の態度にも見出す事が出来ます。

 まず「美男子と煙草」では、後半部分において上野の浮浪者が前景化されています。彼らはおそらく、終戦後に行き場をなくしたあるいは職を見つけることができずにいる人々だと推測できます。戦争を生き残ったものの、蔭に追いやられた状況である戦後の犠牲者と呼ぶ事が出来ます。その光景は、職を持ち、日々を暮して行かれる人々からは「別世界」と形容されるほどのものでした。実際「私」も、浮浪者との対談を依頼されたときに「なぜ、特に私を選んだのでしょう。太宰といえば、浮浪者。浮浪者といえば、太宰。何かそのような因果関係でもあるのでしょうか。」と強い疑問と屈辱を覚えます。

 しかし後半部分では、「美男子」と「煙草」という二つの要素をを共通項として、記者たちに自分と浮浪者たちを重ね合わせて語ります。浮浪者たちの要素を自分自身も持っていることを取り上げることで、「地獄」はすぐそこにある(メメント・モリ?)ことを強調します。…が、「自惚うぬぼれて、自惚れて、人がなんと言っても自惚れて、ふと気がついたらわが身は、地下道の隅に横たわり、もはや人間でなくなっているのです。私は、地下道を素通りしただけで、そのような戦慄せんりつを、本気に感じたのでした。」と「私」が語る「戦慄」は、どこまで本気のものなのかというのは議論の余地があります。「私」が感じる浮浪者たちとの共感(と呼べますかね)は一方的であり、「私」は戦地に出る事はない身であって、今も妻と家と職業を持つ(一応?)社会生活のなかの個人であり、共通項である「美男子」と「煙草」も浮浪者の非常に皮相の要素でしかありません。つまり、「私」と浮浪者たちのあいだにあるのは共感ではなく、一方的な同一化の念と言って良いと思います(若干脱線ですが、なんで「美男子」と「煙草」の取り合わせなんでしょうね、というの、nature&nurtureみたいなことですかね…? 生まれ(所与)の時点と経験からの選択(獲得)の両方で運命づけられる、みたいな)。

 次に「人間失格」についても見ていきます。葉蔵は人間の生活全般を理解する事が出来ない人物でしたが、親元を離れ(つまり父の脅威から逃れて)、女性と関わるなかで「いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓みみずの思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられて」くるようになります。つまり女性は自分とは全く違う生き物で、何を考えているのか全く理解できない人びとなのです。しかし、「そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません」ということもありました。理解できないのに奇妙に「かまわれ」て関係をもってしまう葉蔵と女性たちは、奇妙な関係をつくりあげていくことになります。

 葉蔵が女性と関係を持ち始めるときにも、自分と女性を同一化する操作が働きます。のちに情死事件を起こすことになるツネ子とのシーンが分かりやすいでしょうか。ツネ子が働くバーで初めて会った時、葉蔵は、「無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が出来るのでした」とツネ子との出会いを振り返っていますが、にもかかわらず、会ったのは一夜だけで、葉蔵はツネ子と再び会うことを恐れだします(その前に「自分は、どういうものか、女の身の上ばなしというものには、少しも興味を持てないたちで、それは女の語り方の下手なせいか、つまり、話の重点の置き方を間違っているせいなのか、とにかく、自分には、つねに、馬耳東風なのでありました」と言ってしまっていることも問題では?とおもってしまうのですが)。葉蔵の意志に反して二回目にツネ子と会ったときに、心が動く実感があるのですが、そのきっかけは堀木がツネ子を拒否したことでした。「いかにもそう言われてみると、こいつはへんに疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、金の無い者どうしの親和(貧富の不和は、陳腐のようでも、やはりドラマの永遠のテーマの一つだと自分は今では思っていますが)そいつが、その親和感が、胸に込み上げて来て、ツネ子がいとしく、生れてこの時はじめて、われから積極的に、微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました。」こう葉蔵はツネ子への想いを語るのですが、この「金の無い者どうしの親和」、大変な誤解のある言葉です。葉蔵の実家は地主の家ですが、ツネ子は留置所にいる夫のためにバーで働く女性で、その困窮具合にはやはり差があると思うのです。その違いは葉蔵自身にもわかっていることであろうけど、わざと隠してというか、表面上のお金の不足ということだけを共通項として、自分をツネ子と同一化して語っているのです。