卒論(仮)ー「美男子と煙草」②

 卒論中間発表が終わりました! 犠牲者云々のテーマはもっと詰めなければいけないなあというのが今のところの課題です。

 前回(卒論(仮)① - 谷)の続きとして「美男子と煙草」について検討を続けていきます。

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2.私のたたかひ

2-1.孤影の者

 

私は、ひとりで、きょうまでたたかって来たつもりですが、何だかどうにも負けそうで、心細くてたまらなくなりました。

 

 「美男子と煙草」は過度に二項対立的なテキストである―もっと言えば、二項対立が作られたテキストである。

 まず、引用した冒頭部分に仕組まれた対立構造を見ても良いでしょう。<私>=<太宰>=孤独といった設定が提示されていますが、この裏にはたたかう相手=敵=複数といった対立が見いだされそうです。また、この後すぐにこの敵が<古いもの>であることが語られます。「美男子と煙草」は前後二つの部分に分けられることができそうですが、それぞれ前半では<三人の文学者>、後半では<編集者>がこれに当たるでしょう(そして、それぞれ複数になっています)。複数の敵とたたかう孤独の<私>という偏ったパワーバランスが、私の一人称語りによって印象付けられています。

 で、本題としては、この前半部分って後半部分のエピソードとあまり関係がありませんよね?ということです。美男子、煙草、浮浪者が出て来ない、冗長な前置きとも取れる前半は、主題がありそうな後半部分とどうかかわるのかというのが、謎なところだと思います。

 前半と後半をつなぐ論理、それは<私>の被害体験という面が見出せそうです。主題的な連関はなく、負けそうになったエピソードとして二つを並べていると考えてみたら、そこで強調されるのは被害者としての<私>であって、負けそうなたたかいに日々追い込まれ消耗していく<私>の傷ついた姿のように思えます。

 敗者、弱者としての<私>は、作られた二項対立構造によって、裏側を強く意識させられます。つまり、弱者としての<私>を際立たせることによって、同時に、古いもの、おごったもの、複数の強者たちの存在も色濃く、より加害者として浮かび上がることを余儀なくされます。

 よって、後半の編集者たちの行動には、前半部での悪意に満ちた三人の文学者たちの嘲笑が重ね合わされます。浮浪者を取材する、という編集者たちの<私>への提案は、実際よりも悪意を粉飾されて立ち現れることとなるのです。それは前半部のエピソードを冒頭に置いた<私>の構造上の作為であり、<孤影の者>として<私>を語るレトリックの効果です。

 

2-2.仮想敵と仮想慕

 古い者は、意地が悪い。何のかのと、陳腐ちんぷきわまる文学論だか、芸術論だか、恥かしげも無く並べやがって、もって新しい必死の発芽を踏みにじり、しかも、その自分の罪悪に一向お気づきになっておらない様子なんだから、恐れいります。押せども、ひけども、動きやしません。ただもう、命が惜しくて、金が惜しくて、そうして、出世して妻子をよろこばせたくて、そのために徒党を組んで、やたらと仲間ぼめして、所謂いわゆる一致団結して孤影の者をいじめます。

 

 <私>がこのように言う<古い者>とはいったい何なのか、という総体としての姿は、よくわからないものとなっています。<古い者>という何とも抽象的で、大きな集団の提喩として、<三人の文学者>や<編集者>などがいました。

 二項対立の上で、<古い者>に対して孤独な<私>がいましたが、<私>の方にも色々なものが重ね合わされて、その弱さを一段と強調しているように思います。

 まず真っ先に思い浮かぶのは<浮浪者>との重ね合わせです。<美男子>であること、<煙草>を吸うなど頽廃的であることの要素から、<私>は前半で<なぜ、特に私を選んだのでしょう。太宰といえば、浮浪者。浮浪者といえば、太宰。何かそのような因果関係でもあるのでしょうか。>と言ったにもかかわらず、<浮浪者>と自己を重ね合わせます(余談かもしれませんが、美男子や煙はイコノロジーの分野でははかなさ、一時性、脆さ、そして死への近さを示すものとして扱われる主題でもあります)。で、ここで重要なのは、そのような<私>による<浮浪者>との同一化の論理を<古い者>の側である<編集者>が笑い飛ばし、真剣に取り合わないことだと言えます。これによって、前半で提示された二項対立が一層強化され、<浮浪者>への同一化と<古い者>からの敗者という二つの意味での弱者性が<私>に付与されることとなります。

 もう一つ、(研究では取り上げられているけど本文中では意外と小さい)ヴァレリーとの同一化もありそうです。新しい文学を設立しようとする<私>は、善行についてのヴァレリーの引用を示唆することによって、ヴァレリーへの憧憬を示します。

これでも、善行という事になるのだろうか、たまらねえ。私は唐突にヴァレリイのる言葉を思い出し、さらに、たまらなくなりました。
 もし、私のその時の行いが俗物どもから、多少でも優しい仕草と見られたとしたら、私はヴァレリイにどんなに軽蔑されても致し方なかったんです。

 

う~ん、微妙ですw 自分としてはぜひとも<私>はヴァレリーと自己を同一化して、ヴァレリーの受容像を重ね合わせているとまで言いたいのですが、正直厳しいですw 一つ気になるのは、<私のその時の行いが俗物どもから、多少でも優しい仕草と見られたとしたら、>という条件ですね、この不自然な留保から、<私>は浮浪少年に焼鳥を買い与えたりなどの行為を善行として、善意をもって行っていないとは断言できそうです。

 ちょっとタイトルを回収するまでは論を進められませんでした(ダメじゃん)。

 

2-3.5つの笑い

 これもあまり結論じみたことは言えないと書き始めてもいないのに思っていますが、一応置いておきます。

 2-1.の項で前半部と後半部の連関が無いと述べたんですけど、サブテーマとしてなら一つ通底したものとして”笑い”を提出できます。順番に挙げていくと、

  ①<私>の、文学者たちの悪口を聞き流す笑い

  ②編集者たちの、ウイスキーを進める<私>に対してのうす笑い

  ③編集者たちの、浮浪者を見た感想に対する笑い

  ④<私>と少年の、顔を見合わせたときの笑い

  ⑤附記における女房との一幕を紹介するときの<笑い話>

なると思います。

 頻度としても多い?と思うんですけど、自分はどうにも印象的だと思うんですよね。で、難しいのが、①~③は対立構造に落とし込んで、笑いによる暴力性を見出すことが出来そうな一方で、④の位置づけが難しい点です。一見、①~③とは異なるようですが、果たしてそうなのか?(そうじゃない方が論として面白い) また、④の解釈如何によって、⑤の<笑い話>をどう受け止めれば良いのか、という我々(想定された)読者の態度も変わってきそうで、断言が難しいです。

 なんとも微妙な後半になりましたが、「美男子と煙草」はこんな感じで…。卒論本体までにはしっかり詰めたいですね。次回は「冬の花火」でもやりたいですね。