『アダム・ビード』における陰画

 

★『アダム・ビード』(”Adam Bede”):1859年 イギリス・ヴィクトリア朝時代の女流作家ジョージ・エリオット(George Eliot)による長編小説。16世紀の農村を舞台にしており、中流階級のリアリズムを描き出した。実直な大工のアダム・ビードはヘイスロープ村に過ごしており、そこにメソディストのダイナ・モリスがやってきた。アダムは村一番の美貌を持つが虚栄心の強いヘティ・ソレルと婚約するが、ヘティは地主の孫で軍人のアーサー・ドニソーンと関係を持っており彼の子を身ごもっていた。アダムとの結婚式の前にヘティはアーサーの元へ行こうとするがかなわず、産まれてしまった子供を殺してしまう。裁判でヘティは死刑を宣告され、アダムは悲しみに暮れる。その後、アダムとダイナは惹かれ合い、結婚する。

 

Adam Bede (Oxford World's Classics)

Adam Bede (Oxford World's Classics)

 

 

 

アダム・ビード

アダム・ビード

 

 

 

 「かわいそうなヘティ」は、彼女自身の性格から、その愛らしいルックスとは裏腹に惨めな最期を迎える。彼女はアーサーにも、アダムにも、結局のところ救われることがないまま、大団円から姿を消す。ヘティはなぜ助けられなかったのか? 彼女の最も大きな受難であった旅(36章・37章)に注目しながら、考察を行った。

 

◆孤独

 ヘティの旅は孤独である。彼女自身の抱える不安やプライドによって、誰にも事情を明かさずに一人で旅立つことを余儀なくされる。加えて、旅の途中においても、やはり彼女は他者と分かり合うことができず、ますます孤独に追い込まれていく。なぜなら、彼女には耐えがたい苦難によって、「(引用者注:ヘティの心には)他の人々の悲しみに対する余裕はなかった」(AB,333)[1]からだ。彼女が「ある種の仲間意識」(AB,335)を感じるのは小さなスパニエル犬で、自分の生との対話を行うのは池での孤独な時間においてである。他の人々へ共感を広げることができず、親切にしてくれた地主一家にも歩み寄ることができず、ディスコミュニケーションが起こる。

 

「君がそれを買ってもらいたくても、宝石商はひょっとしたら盗んできたのかと思うかもしれない」地主は続けた。「なぜなら、君のような若い女性がそんなちゃんとした宝石を持っていることは珍しいから」

 ヘティの頭に怒りで血が上った。「私はちゃんとした人々の一員なのよ」彼女は言った。「泥棒なんかじゃない」(AB,342)

 

地主の言ったことはもっともであり、ヘティを心配しての言葉にもかかわらず、彼女のプライドの高さ、そして他者の視点に立つ経験の乏しさから、心配する意をくみ取れず、あたかも目の前で自分が疑われたように感じてしまうのだ。そして、彼女の涙は、ただ自分の身の上の辛さだけを思って流れる。

 

◆語り手の共感の欠如

 ヘティが読者からの共感を抱かれ得ないのは、まず語り手が彼女の心情から距離を取って、彼女の心情に肩入れせずに描写を行っているからだ。

 ヘティが旅への出立を考え始める35章で、語り手は、「そう、アーサーはウィンザーにいる。そして、彼ならきっと彼女に怒ったりしないだろう」(AB,330)と地の文で語り、一見ヘティの考えを支持するようであるが、旅が始まってみると語り手はヘティの無計画さを暴き出して非難する。

 

ヘティは自分が育った場所での単純な観念や慣習を超えたすべてのものにはまるで無知だったので、どうにかしてアーサーが世話をしてくれて、怒りや軽蔑から匿ってくれるだろうなんていう、ひょっとしたらありうる未来以上のしっかりした考えを持つことができなかった。(AB,333)

 

語り手は初めからこの旅への賛成はしておらず、ヘティの心内からは一線を画した位置から描写を始める。ヘティの境遇に対して哀れんではいるものの、あくまでその境遇に陥ったのはヘティに原因があると思っている。彼女の世間知らずさを「仔猫のよう」(AB,333)、憔悴しきった様子を「メデューサのような顔」(AB,345)さらに、この共感のできなさを読者にまで広げるような注釈も加える。

 

「教区!」(中略)ヘティのような人の心にこの言葉がもたらす効果をあなた方はもしかしたらほとんど理解できないかもしれない。(AB,339、下線は引用者による)

 

ヘティの旅路は最後まで描かれることはない。肝心の彼女が最も痛みを伴った赤子殺しについては、語り手は描写することがない。旅の描写は、語り手のこのような独白をもって閉じられる。

 

彼女の疲れ切った足で骨折りながら歩く様、来た道に虚ろな視線を置きながら荷車に座っているところ、もしくは空腹になって村が近づいてほしいと望むことがないかぎり、決してどこに向かうか考えたり気にしたりしないことなどを見て、私の心は痛みを感じている。(中略)このような苦難に足を踏み入れてしまうことから、神があなた方や私をお守りくださいますよう。(AB,350)

 

ここでも、ヘティの様子を見て、胸を痛めているように見えながらも、結局のところは読者との関係に話題は移行している。語り手が感じる痛みはヘティへの共感からではなく、広げようとする共感もあくまで読者のものなのだ。

 

◆Adam’s Journey in Hope

 ここまで見たヘティの旅は、54章における、アダムがダイナのいるスノーフィールドへ向かう道中と対照を成す。頼みの綱としていたアーサーに最終的に会えないショックで正気を失うヘティに対し、アダムは出発を迷いながらも、「ダイナは行くことを禁止したわけではない」(AB,472)と感じ、「ダイナを愛し、また彼女に愛されるとわかること」が「まるで自分にとって新しい強さとなる」(AB,473)と思う。ここにはアダムのダイナに対する、確固たる理解がある。そのようなアダムに対して、旅路での人々も親切で、「町の誰もが彼に道を教えてくれた」(AB,474)。

 なかでも大きく異なるのが、道中の情景だ。ヘティの旅が二月の真冬だったのに対し、アダムの旅は十月の過ごしやすいある日曜日だ。降りだした雨によって悲しみをかきたてられ、夜の凍えるような寒さや闇によって孤独を強めるヘティにとっての情景とは反対に、アダムは雲一つなく、光り輝く晴れた十月の一日に、遮るものも何もなく見晴らしの良い丘の上でダイナを待つ。

 エリオット自身がジョン・ラスキンの風景への強い関心から発展させて、「感情的虚偽」[2]、すなわち「観察者自身の感情が外的な対象に転移されること」を、大っぴらに使う二流の詩人たちを批判するが、ここではあえてこの手法が用いられていることで、アダムの旅路に対するヘティのそれがより比較され、彼女のみじめさ、救われなさが際立っている。

 

◆暗部としてのヘティ

 ラスキンは、「美への愛」についての批判として以下のように著し、エリオットもこれに賛同する。

 

高貴な芸術の流派が堕落したのは、この特別な質に関する限り、美のために真実を犠牲にしたことにある。偉大な芸術は美しいものすべてを力説するが、偽りの芸術は醜いものをすべて省くか変えてしまう。(中略)このようなやり方から生じる悪い結果は二つある。

 第一。適切な引き立て役や、適切な付属物を奪われた美は、美として楽しまれることをやめてしまう。それはちょうど、全ての影を奪われた光が、光として楽しまれることはなくなってしまうように。白い画布は陽光の効果を生みだせない。画家はある場所を暗くしなければ、他の箇所を輝かせることができない。(後略)[3]

 

 光は、影が与えられてこそ眩く輝く。結末部における幸福を際立たせるために必須だった暗部をヘティという人物に負わせることで、アダムとダイナの両者へ読者は存分に共感を拡大することができる。なぜなら、暗部の存在こそが真実の芸術であり、またリアリズムでもあるからだ。そして芸術家がもたらすことのできる恩恵は、「共感の拡大」[4]であり、「偉大な芸術家だけが描くことのできる人間生活の絵は、平凡な人びとや利己的な人びとさえはっとさせて、自分から離れたものを注目させる」。

 よって、Gregorの「ヘティの悲劇はアダムの結婚という世界には存在しない。というのも、一つのリアリティ(引用者注:アダムとダイナ間の愛情のこと)を受け入れることは他を拒否することだからだ」[5]という指摘とは同じ着眼点に立つが、全く逆のことを主張したい。ダイナとの愛を描写し、それを読者が共感できるものに昇華するためには、ヘティの惨劇という影の部分が不可欠だったのだ。

暗部としてのヘティの役割は、35章における描写が象徴的に説明している。

 

2月のその輝く一日は、他のどの一日よりも強い希望の魅力を持っていた。ある人は穏やかな太陽の日差しの下で佇み、畝の端で向きを変える勤勉な耕馬のところにある門を見渡し、美しい一年が面前に全てあることを思う。木々や低木の列には葉は一枚もなかったが、草原はどんなに青々としていたことか! さらに、暗い紫がかった茶色の耕された土や裸の枝も美しかった。(中略)りんごの花の陰や、金色の麦の間、もしくは覆い隠すような木の大枝の下に隠れて、怒りで激しく脈打つ人の心があるかもしれないことを、彼は知ることはないだろう。もしかしたらそれは、若くてかわいらしい少女が、みるみるうちに大きくなっていく恥から逃れる場所を知らず、また人生は愚かな迷羊がたそがれの淋しいヒースの中を延々と遠くまでさまよい続けるようなものと同様のものだということを理解し、依然人生のつらい局所のうち最もつらい部分を味わっているのかもしれない。(AB,327)

 

 『アダム・ビード』の中で、ヘティの旅路は救われることがなかった。しかし、救われることのない陰画の存在によって、よりいっそう、アダムとダイナの真の共感・愛情は読者に印象深く刻まれるのだ。

 

◆参考文献

ジョージ・エリオット「ドイツ民族の自然史」(山本静子・原公章編訳『ジョージ・エリオット 評論と書評』、彩流社、2010、pp.53-114)

ジョージ・エリオット「ジョン・ラスキン『近代画家論』第三巻」(同上、pp.441-468)

Ian Gregor “The Two Worlds of Adam Bede” (From William Baker, Critics on George Eliot, George Allen & Unwin Ltd, 1973, pp.91-96)

 

 

[1] George Eliot, “Adam Bede”, ed. Carol A. Martin (Oxford: Oxford UP, 2008). ISBN 978-0199203475 からの引用。以下断りなくこの形式で引用する。

[2]「ジョン・ラスキン『近代画家論』第三巻」、pp.458 次に続く括弧内も同書同ページからの引用。

[3] 「ジョン・ラスキン『近代画家論』第三巻」、pp.448

[4] 「ドイツ民族の自然史」、pp.59 次に続く括弧内も同書同ページからの引用。

[5]The Two Worlds of Adam Bede” pp.94