切り札として死が残ってる

 Twitterをやめた。せいせいしたぜ万歳と思うと同時に、今までタイムラインを眺めるのに費やされていた時間が宙に浮いてしまったので、昨日からずっと寝ている。無為の生活、生活。

 きっかけは本当に些細なことであって、ありがちに、ただある種の呟きを目にしてとても苛立ったというだけなんだけど。私はちゃんと、Twitterには人や単語を指定してミュートができることを知っている。けれど最早、そういった世界が存在していること自体に嫌気がさしてしまったのだ。あらゆるものへ、許容量が極端に少なくなっている、こんな状態、Twitterは毒にしかならない。だからやめてやった。ずっと寝てる。現実すらも嫌になった。はは

 ここ二週間くらい、ずっとお金がない、銀行残高は296円で、そのことでよくウケをとっている。その実、私は平気なのである。今日は給料日だからお金が5万円弱入ってくるんだと思うけど、貯金ももうやめてやろうと思ってる。バイトを掛け持ちしているから、月に二度給料日があって、入ってきた給料のうちの1万円、つまり月に2万円を目標にしていたけれど、どうせうまくいかないからやめる。貯金するはずだったお金で、今までやったことのないことを探そうと思う。たくさんあるような気がしている。

 そうそう、なぜジリ貧でもそれほど苦ではないかというと、明日のことなんてどうでもいいと思いながら暮らしているからだ。なんと素敵ライフハック。明日がどうあっても構わないという心持が最も美しく映るように思える。知らんけど。

 本当に心につかえているのは恋愛で、どうしようもない思いを抱えている。自分がクズなのは、やはり7年前から決定されたことだから、何を言われても大丈夫な気がしているけど、昨日はそんなことない気がした。すべての人に好かれたいという、不可能性。不誠実にこの世を漂うことの、爽快感。「幸か不幸か」、「私の道」はこういう方向にしか伸びていないようだ。わたしには、好きな人が二人いて、別にそれでもいいと思っていたけれど、二人を同時に愛するという行為の実践は不可能だったから、無自覚に人を傷つけている。

 ヨハネでは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」というおことばが有名であるが、わたしの苦しみ、全く知らない人、知ろうとしない人、知るような人生を送らなかった人の手にかかって死ぬもんか。この罪の感覚を見知っていて、聴いていて、だからこそ赦すことのできない人たちに殴り殺されたい。同族嫌悪のなかでだけ、死ぬことは是だ。それ以外は受け付けない、うまくいかなかったら、わたしは自分で死んでやるよ。