卒論(仮)①

 こんばんは~。卒論を書きます! まあ一人でやっててもつまらないし、妄想になるし、あなたの感想ですよね?という羽目に陥るし云々…なので、気軽に書いて気軽に読んでくれれば嬉しいです。何か言ってくれたらもっと最高です!

 題材は太宰の「美男子と煙草」です。⇒太宰治 美男子と煙草 

 

問題意識としては、戦後の太宰の短編に”犠牲者”が(そう言及される/されないの差はありますが)頻繁に出てくることです。よく戦時下の太宰の文学は明るいと言いますが、それは戦後間もない頃も同じといって差支えはありません。私はここに死者が出て来ない、という要素が大きく力添えしていることを見たいです。もちろん、犠牲は存在します。「冬の花火」「未帰還の友に」などで目される”未帰還者”、「メリイクリスマス」での原爆による死者(これは犠牲がある種の過去のノスタルジーへのよすがとして働きます。つまり、未来への力学を含む点で戦後の”犠牲”とは違ったものとして扱います)、「散華」での死(本人が”犠牲”だと思っていないことに加え、「この戦争」のための死と「大いなる文学」のための死が並列して語られてる点で、やはり戦後のものとは区別します)はありますが、いずれも戦後における、明らかに無残に追いやられてしまった、敗者としての”犠牲”とは異なります。括弧内の情報が多すぎちゃいましたね……。この辺は是非、のちに書きます!

 ここまで犠牲犠牲と言ってきましたが、”犠牲”と、そうではないもの、区別するものとして”人柱”を仮に設定します。”人柱”が「散華」の「xのために死ぬ」ことであるのに対し、犠牲は無惨に失われてしまうこと、脇にのけられ、日の目を浴びずに記憶から去ってしまうことを指したいと思います(「滅び」と言ってもいいかもしれませんが、保留します)。重要なのは、(せっかく定義したところですが)この”犠牲”と”人柱”は背反する二つの事象ではなく、しばしば重なり合う領域があること、もっと重要なのは、いとも簡単に一方からもう一方の状態へと移り変わってしまうことです。つまり、自分は何か大きな信念をかけて闘っていて、自分よりももっと大きな存在であるその何かに命を捧げる気でいるのだけれども、反対するもっと抗いたい力に戦い抜く事が出来ず、みすみす”犠牲”となってしまう危うさが存在しています。そういったよく考えると当たり前のことを念頭に置きつつ、内容に移ります。

 

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このツイートも再現しつつ

 

1.うそつきの小説(?)

1-1. 君たちには気がつかなかったかね。

 「美男子と煙草」で最も印象的な場面は、語り手が地下道で会った浮浪者たちのことを「端正な顔立をした美男子ばかりだといふことを発見した」と話すところでしょう。加えて、その浮浪者たちのほとんどが煙草を吸っていた様子も叙述されます。しかし、明らかなことに、これはです。語り手自らが、地下道を通る際にわざわざ「私は、地下道へ降りて何も見ずに、ただ真直に歩いて、…」と話します。そうして地下道で実際に顔を合わせ、対話をするのは出口近くにある焼鳥屋の前にいた少年たちです。

 これは一見、浮浪者たちに対する共感の欠如ともとれる描写です。その実、記者たちに向っては、語り手は真直に歩いた理由を「自分自身の苦しさばかり考へて」いたことに求めます。しかし、自分自身の痛みにのみ自覚的で、他者の痛みを慮らない人物のように見せかける、語り手から記者たちへのポーズにすぎないのです。語り手は記者たちへも(なぜか)回りくどい形で、自身が浮浪者となってしまうことの危険性を示唆します―「君なんか色が白くて美男子だから、危いぞ、気をつけ給へ。僕も、気をつけるがね」「どうにも、僕にもそんな気持が思ひ当らぬこともない」。自分が浮浪者と同等の者であることを直視することのあまりの恐ろしさに、直にまなざすことができないのです、歪な鏡を見ることができないように、朽ちた肖像画から目をそらすように。そして、附記で女房が「本気に私の姿を浮浪者のそれと見誤ったらしい」ことを「笑ひ話」として語ります。ここで決定的になっているのは「私」・「浮浪者」・「少年たち」の三者の分かれ目です。「私」は浮浪者たちとは一定の距離を取り続け、まなざすこと・対話を拒絶し、一方で対比として少年たちに煙草をやめるように言い、一緒に写真を撮ることで、彼等との共感を見出したように語ります。しかし、実際に他者から見たときの「私」は、「浮浪者」であり、そう取り違えられることで裏側で、「少年たち」が「浮浪者」でもなく、「私」とも異なる者たちとして切り分けられ、まなざしによって定められてしまいます。

 

1-2.誰にうそを言うのか―「君は南国の蜜柑畑に舞ひ降り」

 文体についてです。「美男子と煙草」の語り手は敬体、ですます調を基本的に使います。基本的に、というのは、附記および会話文中は用いていないことを指します。つまり、小説を書くとき、あるいは語る時に特殊な心遣いをする、またはポーズをとる語り手と目する事が出来ると思います。

 加えて、うそをついているわけですから、そこには誰かに向って糊塗しなければならない、その対象としての他者が想定されているわけです……が、非常に微妙なものです。読者に対しての呼び掛けが現れているのが本編最後(つまり、附記直前)の段落で、「は南国の蜜柑畑に舞ひ降り」の「君」(前後の「私」・上野公園の少年たちとは別の人です)、「少年たちよ、容貌には必ず無関心に…」の「少年たち」と呼び掛けられるその人に向って語られていたことが明らかになります。

 この呼びかけによって、語り手「私」は、小説家としての顔を再び見せます。しかし呼び掛けの調子からも読み取れるように、前半の負けそうな小説家とはもはや違ったものになっています。少年たちと撮った写真を一種のアレゴリーとして用い、読者「少年たち」と語り手―小説家―ストーリーテラー「私」の間の連結を行い、「私」の感じた共感を読者へ広げようとする操作が行われています。(要加筆)

 

あと半分くらいありますが、予想以上に長くなっちゃってきて眠いのでやめます(・_・;)

 

次回予告(忘れちゃうからメモします)

2.私のたたかひ

2-1.孤影の者

2-2.仮想敵と仮想慕

2-3.4つの笑い