絲山秋子「沖で待つ」(と芥川賞)

 

絲山秋子:1966年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後住宅設備機器メーカーに入社、2001年まで営業職として勤務。03年「イッツ・オンリー・トーク」で第96回文學界新人賞を受賞。04年『袋小路の男』で第30回川端康成文学賞、05年『海の仙人』で第55回芸術選奨文部科学大臣新人賞、06年「沖で待つ」で第134回芥川賞を受賞。他の著書に『ニート』、『北緯14度』、『不愉快な本の続編』『忘れられたワルツ』などがある。[1]

※最新作『御社のチャラ男』は2020年1月に単行本化

 

沖で待つ」:初出は2005年9月号の「文學界」。2006年に文芸春秋社から単行本化、2009年に文春文庫から文庫化される(見比べたところ、それぞれの版で校異などありませんでした)。

 

◆選評(『文藝春秋』平成18年/2006年3月号368-373選評掲載より抜粋)

 

文体・構成について

この作品には、全く無駄がないからである。一人称、しかも話言葉という、無駄の生じる危険の多い形式を用いておりながら、その無駄のなさは小気味がよいほどで、正味のおいしさに富んでいる(河野多惠子

 

[*佐川光晴「銀色の翼」に寄せて]わたしは「銀色の翼」を推した。理由は、主人公の心理と状況が冒頭から過不足なく描写されていて、物語の輪郭をつかむことができたからだ。

… この作品を支える描写は、「文脈の共有」という幻想に依存しないという意志がなければ不可能なものだ。(村上龍

 

最初と最後にファンタジー仕立てを持ってくる手口にさして意味があるとは思えないし、… (宮本輝

 

物語内容について

1.職業

彼等の職業の折り込まれ方の見事さには感心した。職業(生活の資を得るための仕事)を見事に描いた小説として、どういうものがあったかしら。… 現代の本式の職業をこれほどまでに自由に書きこなした『沖で待つ』の新しさには瞠目する(河野多惠子

 

何年も実社会でもまれた人しか持ち得ない目が随所に光っている。そこはかとない深みといえるものが読後に残る。(宮本輝

 

2.二人の関係性

友人でもなく、恋人でもなく、同僚。その関係に横たわる茫漠とした空気を正確に描くことに成功している。(山田詠美

 

ここに見られる女と男の間にあるのは、恋愛感情でもなければ単なる友情でもない。仕事の中で灼熱する生命の閃光を共有することによって生れた新しい関係である。しかも二人が女と男であるために、一見遠ざけられたかに思える性の谺が微かに響き返してくるところにも味わいがある。黒井千次

 

この作の要点は恋愛ではない女と男の中である。改めて考えてみれば、人を囲む他者の半分は異性であって、その中の大半は恋愛に発展しない。それでも気が合うことはあるし、深く信頼する場合もある。池澤夏樹

 

二人の信頼関係はきちんと書かれているし心地良く読めるのだが、このような仕組みが置かれる以上、ハードディスクの中に何が入っているかが気になる。… 何かもうひとつ、短編としてのコワさが欲しかった。(髙樹のぶ子)

 

まだ若い太っちゃんが、もしも自分が死んだら使っているPCのハードディスクを破壊してくれと語り手に頼むのは、彼女とは死生観を共にしているという思いの表明である。だからハードディスクに実際に何が入っていたかを問うことには意味がない。(池澤夏樹

 

 

時代について

目先の風俗の小道具[IT時代の氾濫した情報]に目くらまされて、本質的な主題の獲得発見が疎外されているといえるのかもしれない。… これらの作品を読んで何か未曽有の新しいものの到来を予感させられるということは一向にないし、時代がいかに変わろうと人間にとって不変で根源的なものの存在を、新しい手法のうちであらためて歴然と知らされるという感動もない。(石原慎太郎

 

女性と男性が企業内の同じ職場で同一の仕事をこなす光景は、かつてほとんど見られなかった。女性総合職の出現によって女と男の対等に働く場が生れた。それは新しい現実である。その新しさがいかなる意味を持ち、どのような可能性を人間にもたらしたかを追求したのが本作であるといえよう。(黒井千次

 

◆先行研究

1.夏川けい子「解説」(『沖で待つ』文春文庫版所収)

絲山秋子(イトヤマさん)と以前同じ会社に勤務していた頃を振り返る。お二方とも、1986年に施行された男女雇用機会均等法の数年後に、当時まだ少数であった女性総合職として採用され、実家や出身大学から離れた地方都市の配属先で新社会人になる経験をした。

 

でも、保守的で身内意識の強い地方都市に、ポンと放り出された不安、宙ぶらりんな立場で特異な視線にさらされた「女性総合職」という立場にあって、自分の居場所を作ろうと奮闘したこと、だからこそ当時、支えになってくれた同僚との間には、他の場所(あえて「東京」と言ってもいいかもしれません)では得難い人間関係があったと思えることは、共通していると思います。私にとってはもちろん、イトヤマさんとの関係もそのひとつです。[9]

 

沖で待つ』という作品からは、十年もの間、会社で過ごしたイトヤマさんの、二度と体験できない新入社員時代への愛惜を感じます。それは「隅付きロータンク」とか「FL」とか「星形ドライバー」とか「コーキング」とか「売値率」とか、要所要所にちりばめられたマニアックな用語(最初読んだときは、正直「読んだ人が意味分かるのかな」と心配になりました)が、すごく愛しげに書かれていることから伝わってきます。[10]

 

2.疋田雅昭「宛先の無い「告白」が誤配される時 : 絲山秋子沖で待つ」をめぐって」

です、ます調の語り手の敬体の文章、また最初と最後の太っちゃんの幽霊との会話のシーンが間の過去の回想を包括する手法に注目する。「タバコ」「居酒屋」「シーカヤック」などの特徴的なシーンや小道具の反復によって、読者の私たちに「私」の太っちゃんとの思い出(「告白」)の「記録」が共有(誤配)される。

 

二人の「同期」としての「記憶」は、本来共訳不可能なそれである。だが、この語り手は、それを様々な技巧を凝らし「物語」という形に「翻訳」した。物語が「翻訳」である以上それは「共訳」であり、純粋な「経験」に近い「記憶」とは異なる。しかしながら、我々にとって共感できる他者の「記憶」とは「共訳」された物語以外にあり得ない。[11]

 

◆「沖で待つ」分析

 

登場人物

「私」(及川):住宅設備会社の営業職。東京の大学を卒業した後福岡に配属され、のちに埼玉に転勤する。語りの現在では、埼玉から浜松に再び転勤することになる。

牧原太(太っちゃん):「私」の福岡時代の同期。東京へ単身赴任し、五反田に住む。

副島:「私」の福岡時代の先輩。埼玉でも共に働く。

井口珠恵(井口さん):「私」の福岡時代のベテランの事務職。太っちゃんと結婚する。

石川:「私」の福岡時代の同期。「九大」出身。

夏目:「私」の福岡時代の同期。石川と関係があった。

 

1.物語形式の分析[12]

1-1.敬体の語り手

1-1-1.女性らしさの強調

「五反田に行く予定なんかなかったのです」「家を出たのですが」「思い出したのでした」(46)

敬体に加えて「の」を挟むことによって丁寧さ、柔らかい調子の語りになる。(女性の声で地の文が再生されるような気がします)説明的な文章、丁寧でありながら口語的な要素も兼ね備える。

1-1-2.距離のある聞き手への説明

会話文の砕けた文体と比較すると、親密さの違いが対照的になる。語り手「私」にとって、聞き手は登場人物の太っちゃん、副島などよりも親しみのない人々が想定されている。「私」と過去を共有していない聞き手に対して、話したい過去を説明し、共有するような語り。

1-1-3.時間的断絶

会話文の即時性、いま―ここの現前性と対照的に、地の文は回想的な文体で統一されている(始めと終わりの場面を含む全編で同じ)。語りの現在がどこに置かれているが不明であるが、過去の出来事を振り返って書く回想形式が取られており、物事と語りが切り離されている。物事に対する「私」の考えや感情がそのままの純度で表れない、沈着な語り手。

 

まるでそれは、福岡営業所で机を並べて残業していたときの会話の一部を切り取ってきたようで、私はなんとも言えない気持ちになりました。

 なぜかと言うと、太っちゃんは三か月前に死んでいたからです。(47)

 

慣れてきて、はじめて設計事務所にカタログを届けるために一人で運転して行って、道に迷って中州に入り込んでまわりがベンツだらけになってしまったときの恐怖を私は今でも忘れられません。(49)

 

1-2.物語時間の入れ子構造

太っちゃんの幽霊と会う場面が、太っちゃんとの思い出を中心とする回想に挟まれる。「私」が死んだはずの太っちゃんを見ることになったことを説明する役割を回想が果たしている(Cf.1-1-2)。加えて、「さいたま市」「五反田」「福岡」という一見したところではばらばらな場所を線で結んでいくような物語が展開していく。

物語の中心を成す回想をさしはさんで、再び冒頭の場面の続きとおぼしき場面に帰って来たとき、私たち読者は「私」の物語を共有しており、「ノート」「HDD」「飛び出す点検口」などにまつわる挿話を「私」や太っちゃんがするように遡及して思い起こすことができる。冒頭で一旦保留された謎が回想の語りの展開に従って解きほぐされていく構造になっている。(⇔2-3)

 冒頭の場面での、共通点が分からない複数の場所や、五反田と「牧原太」、タバコの唐突さ、三か月前に死んでいた太っちゃんという突飛な設定は、謎となって物語を読み進める原動力に変わり、回想部分の語りと綜合することによって重層性を帯びた物語形式になる。(Cf.村上龍選評)

 

1-3.業界用語

「隅付きロータンクBBT-14802Cと和風便器4AC-9のセット」(52)、「星形ドライバー」(57)、「給湯器」などは、ジャーゴン(専門語・職業用語)として、住宅設備機器メーカーで働く「私」の生活に具体性を帯びさせている。

 同時に、これらの小道具の中には、単なる用語以上の役割を物語内で果たすものがある。「隅付きロータンクBBT-14802C」は太っちゃんの家の合鍵を私が沈めたタンクとなり、「給湯器」は記録の入ったHDDになぞらえられ、「星形ドライバー」がそれを開く鍵になる。「私」の周りの生活が職業に関係するものに着目しながら描かれる(一種の職業病)とも言えるし、特殊で新奇な言葉が物語の伏線として新たに意味を与えられているとも言える。

 

2.物語内容の分析

2-1.「私」と福岡―私たちの原点

 「沖で待つ」の登場人物はすべての人物が「私」が福岡営業所に配属されたときに出会った人々である。その後の埼玉へ転勤になった後には新たな登場人物は出て来ないし、思い出は福岡からの距離を測りながら、そこからの断絶として書かれる。[13]

 

「東京ってどう?」

「営業車がないから不便なんだ。工具持ち歩けないし、昼寝もできねえや」

「埼玉は営業車はあるけど、事務所の喫煙スペースが狭いんだよね」(55)

 

「私」にとって福岡は初めての勤務地である特別な場所として意味づけられている。小説内では、語り手「私」はあえて埼玉や浜松について詳しく描くことをせず、福岡という一点においての記憶を語ろうとする。

 福岡の地は、初めは「私」にとっての試練の地として立ち現れた。人事から配属先が決められたとき、「私」は自分を待ち受ける運命を思い憂鬱になる。それは、福岡という土地にライバルとの競争、男尊女卑の風習が付随していることが「私」を脅かしたからだ。

 新入社員の「私」は、出身地や大学のあった土地から切り離され、新参者として福岡に飛び込んでいく。これまで築いてきた繋がりからの断絶に「私」は憂鬱を感じたのだが、同時にそれは始まりでもあった。初日に行った天神への営業カバンの買い物は、のちに重要な「原点」となって「私」に思い起こされる(67)。

 語りの始点も福岡営業所に配属が決まったところに決定される。太っちゃんを想起する「私」の語りのテクストの起源は福岡への配属に求められる。新入社員だった「私」にとっての始まりは、「私」が語る上での重要な軸であり、核でもあった。

 

2-2.成長物語ではない職場小説

 「沖で待つ」は新入社員だった「私」が職場の関係や転勤を経る小説の時間軸がある一方で、「私」の成長物語とはならない。

 「私」を待ち受ける最初の難関は、福岡の土地だった(Cf.2-1)。しかし、その難関はあっさりと解決される。福岡の街は「思いのほか明るくてきれい」(48)で、「拍子抜けした感じ」(48)になる。「私」の努力なしに最初の難関は姿を消す。

 次に立ち上がる難関は、仕事の内容を覚えることだった。「衛生陶器やユニットバス、水栓金具の品番はどれも長くて完璧に覚えることなど不可能に思えました。そもそも商品の見分けすらつきませんでした」(48)と入ったばかりの頃の「私」は語るが、先輩について仕事をするうちに慣れていく。ここでは「私」の成長があるはずなのだが、「勘」「ここはもめそうだ、というにおい」(51)という非常に抽象的な言葉によって語られる。

 回想物語の時間軸の中で最も重大な危機はバブル崩壊だった。好景気が終わり、住宅の着工件数が激減したことによって、「私」の勤める会社は窮地に立たされる。営業職には新しく開拓することが求められ、ライバル会社と現場を奪い合う競争が激化した。「私」も「そこからほんとうに「営業」という仕事を覚えたような気が」(53)したと語る。そこに前後して、大事な場面で太っちゃんがインフルエンザにかかる危機が降りかかる。ペーパードライバーだった「私」が太っちゃんを乗せて「七十キロ離れた伊万里の現場」(53)まで運転して送っていき、窮地を脱することとなる。この回想を、「私」はこのようなモノローグによって締めくくる。

 

  仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる。

  同期ってそんなものじゃないかと思っていました。(54)

 

バブル崩壊に伴う「私」や太っちゃんをはじめとする住宅関係の業種への危機が、同期との特殊な絆の関係にいつの間にかすり替えられて語られている。仕事や職業を背景にしながらも、過度に前景化させることはなく、太っちゃんとの特別な動機との関係、思い出についてフォーカスを当てて語る。

 したがって、「私」にとって最も重大で、最も責任を感じた仕事は職場内でのものではなく、太っちゃんとの約束だった。「私」は、その責務を自分が追うことになるとは予感していなかった。

 

なぜかそのときは、私の方が早死にするという予感があったのです。納まらない現場がないように、死なない人はいないのですが、私という現場は太っちゃんという現場よりもずっと竣工が早いような気がしたのです。それは直感でしたが、あんな事故がなければ実際そうなっていたと思います。だって、あの頃の太っちゃんに「何か起きる現場のにおい」は一切しなかったのですから。(58)

 

太っちゃんの死は、職場で得た論理(「何か起きる現場のにおい」)では予測することのできない、別の次元での事故であって、突然性をもって、避けようのないものとして描かれる。「私」は依頼主の太っちゃんから頼まれた通りに仕事をやりおおせるのだが、その行為は「冒瀆」(61)として「私」にのしかかる。

 

ほんとうの犯罪者になったようでした。(59)

 

私は棺桶をこじ空けて、太っちゃんの死を傷つけようとしているのだ。(60)

 

やっぱり、私はよく眠れませんでした。銀色の円盤を傷つけていたときのきしきしした感触が何度でもよみがえって、私はほんとうに約束を守ってよかったのだろうかと思っていました。(65)

 

住宅の施工と違い、「私」に課せられたのは記録の消去だった。新しい始まりを作るのではなく、なかったことにする、終わらせる行為だった―「これが「終わり」ってことなんだと思いました」(61)。

 職場を題材としながら、「私」の最終的な難関は職場にはなく、同期との約束にあった。そのため、「私」の成長は物語られず、むしろ「終わり」を否応なく突き付けられる物語になる。「私」にとって予期しない「終わり」だったからこそ、自分の行為について確信を持つ事ができないまま、歯切れの悪い感慨を「私」に残す。

 

2-3.回収されない物語

冒頭の場面の「さいたま市」「五反田」「福岡」の三つの地名は回想場面でそれぞれの意味が付与され、回収を果たす。回想を語り終えた後、「私」は再度冒頭に続く時間軸に回帰する。しかし、そこではまた新たな謎が提示され、解決されないまま物語が閉じられる。「『観察日記』」「盗聴器」、夏目と石川への言及は、回想では言及されなかったことであり、太っちゃんの幽霊との会話の中で明かされていく一種の秘密になる(Cf.黒井千次選評)。しかし、語り手「私」は新たに立ち現れた謎を読者の前に開陳する事はもうしない。「私」が過去から語ることを選ばなかった過去であり、それは意図的に隠すための選択というよりも、語ることへの要求を見出さなかった事柄だった。

 

 「きっと実際に会って話したらつまんない男なんだと思うよ」

 私はあわてて言い訳をしました。

「まあな。そんなもんかもしれ、んな」

 太っちゃんがそれ以上の関心を示さなかったのでほっとしました。(66)

 

太っちゃんが持ち出した『観察日記』は、「私」にとって重大な秘密ではないものの、これ以上語ることを望まない。『観察日記』」「盗聴器」、夏目と石川は生前の太っちゃんが共有していた物ではなかったから、回想でも語ることはしないし、会話の中でも積極的に話すことはしない。

 その代わりに、「私」は太っちゃんと共有している過去、私たちの原点を取り上げる。

 

「変なこと思いだしちゃった、太っちゃんの現場」(67)

 

「同期って、不思議だよね」[…]「いつ会っても楽しいじゃん」(67)

 

「何も変わらないような気がしちゃうよね」(67)

 

それなら何も言い足すことはありませんでした。私たちの中には、あの日の福岡の同じ景色が、営業カバンを買いに行けと言われていった天神コアの前で不安を押し隠すことも出来ず黙って立ちつくしていたイメージがずっとあって、それが私たちの原点で、そんなことは今後も、ほかの誰にもわかってもらえなくてもよかったのです。(67)

 

過去を過去として想起しながらも、現在にまで反響しながら存続するものとして「私」は繋ぎ留めておこうとする。その努力が「いつ会っても」や「同じ」「ずっとあって」という言葉の端々に表れ出ている。一方で、過去はもう戻らないこと、過去と現在の断絶については語る事が出来ずに、思い浮かべるだけで言葉として発することができない。

 

太っちゃん、死んでるんだもんね、とは言えませんでした。(65)

 

けれど「いつも」というのはここから過去のことでしかなくて、この先などないのだという思いは、子供のとき間違えて飲み込んでしまったビー玉のような違和感で咽喉につかえました。(67)

 

 最後の「死んでからまた太ったんじゃない?」(67)という「私」のからかいは、表面的には「私」と太っちゃんの何でも言える関係性を体現するものではあるが、「また」という死後と生前を接続しようとする試みは、たとえ死んでいても共有した過去、「私たちの原点」を変わらずに持ち続けてほしいという「私」の祈りだった。

 

◆参考資料

朝日新聞×マイナビ転職 転職ノウハウ vol.145絲山秋子

https://tenshoku.mynavi.jp/knowhow/heroes_file/145

家庭画報.com 芥川賞作家 絲山秋子さんに聞く、小説との向き合い方と自選の書3冊 https://www.kateigaho.com/migaku/72056/

・朝日ぐんま 芥川賞作家 絲山 秋子 さんhttps://www.asahigunma.com/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E8%B3%9E%E4%BD%9C%E5%AE%B6-%E7%B5%B2%E5%B1%B1-%E7%A7%8B%E5%AD%90-%E3%81%95%E3%82%93/

絲山秋子OFFICIAL WEB SITE 天才宣言

http://www.akiko-itoyama.jp/profile/genius.html

絲山秋子OFFICIAL WEB SITE インタビュー

http://www.akiko-itoyama.jp/profile/interview1_2.html#nvB

絲山秋子 Twitter

https://twitter.com/akikoitoyama/status/662187243017138176

・夏川けい子「解説」(絲山秋子沖で待つ』、2009、文春文庫)

・疋田雅昭「宛先の無い「告白」が誤配される時 : 絲山秋子沖で待つ」をめぐって」(東京学芸大学紀要. Ⅰ = 人文社会科学系. Bulletin of Tokyo Gakugei University 67, 110-97, 2016-01東京学芸大学学術情報委員会)

 

 

[1] 文春文庫『沖で待つ』作者紹介欄を参考に執筆。

[2] 朝日新聞×マイナビ転職 転職ノウハウ vol.145絲山秋子

https://tenshoku.mynavi.jp/knowhow/heroes_file/145

[3] 家庭画報.com 芥川賞作家 絲山秋子さんに聞く、小説との向き合い方と自選の書3冊 https://www.kateigaho.com/migaku/72056/

[4] 朝日ぐんま 芥川賞作家 絲山 秋子 さんhttps://www.asahigunma.com/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E8%B3%9E%E4%BD%9C%E5%AE%B6-%E7%B5%B2%E5%B1%B1-%E7%A7%8B%E5%AD%90-%E3%81%95%E3%82%93/

[5] 絲山秋子OFFICIAL WEB SITE 天才宣言

http://www.akiko-itoyama.jp/profile/genius.html

[6] 絲山秋子OFFICIAL WEB SITE インタビュー

http://www.akiko-itoyama.jp/profile/interview1_2.html#nvB

[7] 同上 http://www.akiko-itoyama.jp/profile/interview1_3.html#nvB

[8] https://twitter.com/akikoitoyama/status/662187243017138176

[9] 夏川けい子「解説」(絲山秋子沖で待つ』、2009、文春文庫):180

[10] 同上:183

[11] 疋田雅昭「宛先の無い「告白」が誤配される時 : 絲山秋子沖で待つ」をめぐって」(東京学芸大学紀要. Ⅰ = 人文社会科学系. Bulletin of Tokyo Gakugei University 67, 110-97, 2016-01東京学芸大学学術情報委員会):102

[12] 以下、「沖で待つ」本文からの引用は、2005年9月号の「文學界」pp.46-67に依る。

[13] 疋田雅昭 前掲論文:103